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2019

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26Nov
2016

栗原地区ワークショップに参加してきました

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は垂井町栗原地区のワークショップに参加してきました.
合原公民館集合で,黄金(こがね)塚→冠石・長束正家陣跡→連理の榊・長宗我部盛親陣跡・竹中半兵衛閑居地→栗原九十九坊跡→清水寺跡→八幡神社の順で巡りました.
元の予定ではそれ以外に通玄寺,常夜灯もありましたが,時間の都合で素通りです.
ここで全ての内容を書くのも面倒ですし,あまり良くないような気もするので,自分の気になっていたことや,備忘録として書いておこうというものだけ以下で記述します.
なお,いつもの通りうろ覚えなので,内容の正確さは保証できません.


まずは冠石について.
昨年末の垂井町陣跡巡りで長束正家陣跡に訪れて以来,同じ場所にある「冠石」の存在が気になっていました.
なんせ「冠石」という看板はあるのですが,側に小さな祠があるだけで,冠石自体の説明書きがなく,その冠石がどれなのかさえ分からない状態なのです.
ですので,今日のワークショップは8割方冠石目当てでした.
先に冠石がどれなのかというと,

この祠の下(土台)の石が冠石なのだそうです.
今日は案内の方が祠を開けて中の棟札を見せてくださいました.
お話を聞くと,元正天皇の頃に御座所の天辺に置かれた石なのだとか.
戦国時代の一部以外はサッパリな私は右から左へ状態でしたが,大まかには把握できたので収穫となりました.
できれば今後予算が出た時に説明看板を作ってくださると嬉しいですね.


その冠石のある場所と長束正家陣跡は同一で,陣跡についての説明や案内人さんの考えも話してくださいました.
今でこそ道も整備され,陣跡から大垣方向に開けた土地は水田が多くなっていますが,昔は「子どもが行くと狐にさらわれるから行ってはいけない」という森?というか湿地?だったそうです.
関ケ原合戦時,垂井町栗原から養老町沢田あたりは浅瀬のような環境だったようで,それを勘案すると,雨の降る夜に大軍を動かすのはハイリスクであったとのこと.
小説等で言われる進行経路には疑問を感じているそうです.
ただ,当時は高い木々もなく,大垣方面の視界は非常に開け,大垣を決戦地と想定した場合には適所なんだとか.
長宗我部盛親陣跡についても,細い山道を使って大軍を移動させるのは困難であるため,粗方少し上った所から麓にかけて布陣していたのではないか,と考えているそうです.


そこから林道を進んで連理の榊・長宗我部盛親陣跡・半兵衛閑居地へ.
余談ですが,前に連理の榊に訪れた際,来た道とは逆側に林道を見つけ,以来気になっていました.
今回上りはその林道を使うとのことで,内心とても喜んでいました.
菩提山の林道や明神湖周辺の林道を開拓してみたくてうずうずしていたので,その第一歩というか,勇気付けになった気がします.
やはり林道は山道と違って歩きやすいですね.
時間はかかりますが,ひたすら折り返しながら登るのが好きなんです.
道脇の楓も良く色付いていました.



道の途中で市杵島神社という,厳島神社と関係のある神社さんの手前まで来ましたが,今回はスルーしたので,今度一人で来ようと思っています.



そして連理の榊.
お久しぶりという感じです.
お話でへ~と思ったのは,「この榊の枝をカップルで絡ませると,その枝がくっついた頃に結婚できる」といういわれです.
榊はくっつきやすいというのも初めて知りました.
そんな木もあるんですね.
話が変わりますが,この周辺の木28本を来年の3月までに伐採するそうです.
そのとき辺りにまた来ますかね.
なお,写真右奥の穴は,清水寺の奥の院として,弘法信仰の関係で作られたようです.



そこから少し上へ進むと,土塁などの遺構の残る場所に出ます.
栗原城跡の一部で,牧田川合戦跡と言う方もいらっしゃるそうです.



少し下ると九十九坊跡に出ます.
前来た時は特に何も考えず,「元からこんな感じだったのかな」くらいしか思っていませんでした.
しかしお話では,「99あった寺の内,残ったのが清水寺.ここにある石仏は山中の物を集めたもの.」とのことで,驚きました.
ただその昔,まだ色々と緩かったころに,年号入りの墓や骨壺が持っていかれたり売られたりしてしまい,今あるものは年代が分からないそうです,



書き残しておきたいのはこんなところです.
また良さそうなフォーラムなりワークショップなりがあれば参加したいです.


それではまた.


以下は今回思う所のあったことをつらつらと書いています.
つまるところ愚痴です.
広告下の「つづきはこちら」よりどうぞ.
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つづきはこちら

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10Oct
2016

たまに気になるお話

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
色々と忙しくしている今日この頃です.
去年に引き続きふらっと垂井に行くこともあって,その日付は記録しておきたいなと思うのですが,もはや日常化してしまって記録し忘れまくりで,今年何度行ったのか正確な回数が分かりません.
多分10回くらいでしょうか…専ら資料閲覧・複写のための訪問です.

さて,タイトルの通りのお話を…
竹中氏関連でたまに耳にする(目にする)のですが,その都度「ううん…?」と思うものです.
長浜の豊国神社の近くには,長浜開町四百年記念碑があり,その石碑には『豊鑑』に記されている歌が刻まれています.


記念碑のすぐ近くには,記念碑の説明看板が2つあります.
ひとつは記念碑を建てた際の説明看板だと思います.


こちらは恐らく,上の看板よりも後年のものと思います.


『君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のかずの つきやらぬまで』
この歌は,説明看板にあるとおり『豊鑑』に書かれており,比較的初めの方に登場する歌です.
ですが,竹中氏関連をご存知で,上の説明看板を読んだ方は,古い方の看板で『豊鑑』の著者を「竹中半兵衛」として紹介している事に「あれっ?」と感じると思います.
記念碑を建てたのが昭和48年ですから,その頃の重門公の存在は,まだ父の名の陰にあったということでしょうか.
一方,後年の(ものと思われる)説明看板では前述の疑問が解消され,『豊鑑』の著者は「半兵衛の子重門」となっています.
ですがこの看板にも「ううん…?」な点があります.
それは,歌の作者が竹中半兵衛となっているということです.
この歌が『豊鑑』に登場することは明らかなのですが,その歌の直後には「もう誰が詠んだのかも忘れてしまった」という旨の文が続き,半兵衛公が歌の作者であるとは一言も書かれていません.

で,つまり言いたいのは,この歌が半兵衛公の作であるという情報を鵜呑みにしないでほしいな,ということです.
また,『豊鑑』の原本の文字は見たことがないのですが,少なくとも「半兵衛公の自筆文字」ではなく,「重門公の自筆文字」を刻んだものであり,その辺を人に伝える際に誤りやすいのかなと思います.
(確かに,後年の説明看板だと「半兵衛公の自筆文字」とも読み取れますよね…)
それともう一つ,これは石碑・看板に非はないと思うのですが,「この歌が長浜の地名の由来になった」という誤解を招きそうなんですよね…
「長濱の地名起源歌碑」と書かれていると,「この歌が起源なのか」みたいな感じに陥りそうで…
地名自体は,「長く栄えるように」といった意味合いで付けたというのがよく聞かれます.
信長の名前から一字もらったとかいう話もあるようです.
(ちなみに,長浜市史を確認したところ,前者のような旨が書かれていました.)
ただ,何で見たのかど忘れしたのですが,「城落成の際に半兵衛が歌を贈り,その歌よりその地を長浜とした」というような話は,小説で見たかのかな…恐らく創作的なものですので,あくまで創作的なものとして捉えるのが一番かと思います.
もしかしたらどこかに半兵衛の作と明言された資料があるかもしれませんけどね…笑
(小説で見たような気がしたので手持ちの本をぱらぱらと見たのですが,大体どれも「今浜から長浜と名を改めた」くらいの文で済ませていたので,本当どこで見たのかなと…)
何かこれに関連した資料なりがありましたら,お教えくださいね.
以上,たまに気になるお話でした.

話は変わりますが,しばらく前,半兵衛公のお墓についての考察を載せたブログ記事に辿り着きまして,それが面白いな~と思っています.
半兵衛公のお墓は全国に4ヵ所あるようで,「本当の墓はどれか」といったことをテーマに,色々と資料を参照しながら考察されていて,たとえ考察の域を出ていないとしても,物凄く参考になります.

また別の話ですが,先日の垂井町の勉強会の中で少し紹介された『譜牒餘録』という資料が気になり,図書館で閲覧・複写してきました.
(いつものごとく竹中氏の項のみです.国立公文書館内閣文庫編のものは全3冊,竹中氏は下巻に入っています.)
寛政重修諸家譜編纂のために諸家から提出された資料そのものの写しとのことですが,恥ずかしながら私はその存在を全く知りませんでした…
(正確には寛政重修諸家譜編纂のための資料『貞享書上』を編集したもの.)
ざっと見た感じでは,確かに寛政重修諸家譜というか,どちらかというと寛永諸家系図伝の内容と同じでしょうか.
後程ゆっくりと見ようと思います.


それではまた.

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04May
2016

六社神社・海戸神社に関する追記と余談

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
前回の記事「揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました」では,2つの神社と竹中氏との関わりを書きました.
これについて,関連の書籍を追加で見てきたので,少し追記したいと思います.

まず,春日村史の当該部を閲覧した結果について.
春日村史に記載の神社は,その数も非常に多く,「六社神社」だけでも複数存在します.
しかし,その中で竹中氏に関する記録があるのは,前回の記事で紹介した2社のみのようです.
以下は,春日村史及び揖斐郡志からまとめたものです.

・六社神社(川合)
火災に見舞われたことがあるものの,棟札16枚が残っている神社で,重門・重常と代々による奉祀の記録が確認できます.
記録の一部では,
この神社は竹中重門が関ヶ原合戦の折に戦勝祈願をした神社で,その結果味方が勝利し,当社の床下に隠れていた者を捕まえた.
以来,その謝恩として,毎年米一石を神社に納めた.
(いつまでお米を納めていたかはメモし忘れました…すみません…)
とのことです.
春日村史内には遷宮の記録は載ってません.
神社の名称の遷移は,六社大明神之宮(元禄13年・古来帳),六社大明神(宝暦9年・神社改帳),同(明和元年・万明細帳),同(寛政8年・同),六社神社(明治5年・同)となっています.

・海戸神社
春日村史記載の昭和20年調の神社明細帳より,
「海戸神社は往昔より川合村字宮に鎮座したるに,岩手領主竹中重門の崇敬厚く,氏子に請ふて岩手村へ遷座し代々奉祀したるを,古屋住民は由緒に基きて竹中氏に請ひ大正弐年拾壱月古屋の現位置へ遷座移宮したるものなり.」
また,揖斐郡志には,
「海戸神社川合字古屋鎮座,祭神木花開邪姫命,勧請年月不詳,慶長五年岩手城主竹中重門母徳月院,此地に兵乱を避け祈願小康得たれば,岩手に奉遷崇敬す,明治四十四年八月遷座す.」
とあります.


で,自治体史を読んだ結果,前回の記事で書いたことに関して間違いがいくつか出たので,以下で訂正しようと思います.
前回の記事で,一番最初に参考にした本「垂井の文化財」を読むと,「春日村史の中では,六社神社と海戸神社を同一のものとみなしたような記述がされている」と読み取れ,またそのような趣旨のことをブログに書きました.
ですが,春日村史を読む限りでは,2社は独立して書かれています.
「垂井の文化財」の中で,どういった経緯で「海戸神社は六社神社の末社か?」という結論に至ったのかは分かりません.
また,2社は別社ということから,岩手(岩井)に遷宮したのはあくまで海戸(開戸)神社のようです.
(自治体史を読んだ限りの話.)
六社神社については,自治体史からは遷宮の記録が確認できませんでしたが,神社の記録自体に書いてある可能性があります.
竹中氏関連の書籍で,春日村から遷座したとされる神社が本当に六社神社であるのか,海戸神社であるのかも,出典が詳しく書いてあるわけではないので良く分かりません.
まあ今回図書館に春日村史の上巻がなく,中を確認できなかったのも一因の可能性がありますが…
神社の記録も全部が自治体史に載せてあるわけではありませんし,どうしてもそこら辺まで突っ込もうとすると,一個人では限界があります.
今回の話は神社の記録次第ということです.
また,前回「得月院様が避難した原因の戦は,姉川合戦などではないか~」みたいなこと書きましたが,これも今回「慶長五年」「関ケ原合戦」という記述から,間違っていたみたいなので,訂正します.
ではあの「元亀天正」の「十数年間」は何なのか…
ギブミー神社の記録…
さらに,「得月院様がお子が授かるようにと願掛けをした六社神社」と,「戦勝祈願した六社神社」が別の神社である可能性も0ではありません.
少なくとも神社の記録から後者は今回訪れた六社神社と判明しているようですが.
竹中氏関連書籍では「春日村の六社神社」となっており,竹中氏と関係のありそうな六社神社はここくらいなので,同一である可能性は高いですが,「願掛けのために訪れた,もしくは遷宮した」という記述は今の所確認しておりませんので,何とも言い難いです.
また,今回見た自治体史の中では,「得月院様がご仏像を持ち帰った」という事項は見つけられませんでした.
こういう雑記的・逸話的なのは自治体史では載ってなさそうですしね…
あと,「『字』って読めない字だと思います」とか言いましたが,これも多分違いますね…
本当,このブログを信じるのだけはやめてくださいね…
素人が足掻いてる記録を残すだけのブログなんで…

別の話ですが…
六社神社の項にある「床下にいた者を捕まえた」ってのは恐らく小西行長のことかと思いますが,同じく春日村の中山にある「小西神社」にも同じ話があるようで,前者は単に「床下にいた者」で,後者は「小西行長」であると書かれているようです.
(実際の記録は見てないので知りません.)
合戦後,隠れていた小西行長を捕えたことによる祟りか,火災に見舞われることが多々あり,禅幢寺に小西行長の墓を建てて供養した,という話は知っていましたが,このあたりの神社に隠れていたという伝えがあるのは知りませんでした.
小西神社について,春日村史によると,「小西行長を捕えたあとに火事が相次ぎ,その地の人が憐れんで,行長の残した小刀を埋めて墓地としたのが始まりである.その後に(色々あって)神社とし,今に至る.(超要約)」だそうです.
小西行長の小刀について,何か別の話があったような…と思わなくもないですが,それはまた時間のある時に調べるかもしれません.


んで,タイトルにあるように,ここからは余談(本人的には余談でない)をしたいと思います.
前回の記事にあるように,得月院様に興味があって,最近はその辺の史料探しをしたい気持ちが強いです.
なんですけど,やっぱり一筋縄ではいかなくて,尻尾を掴むどころか尻尾を見つけることすら出来ません.
今回,春日村史と揖斐郡志を読んでいると,その中で「徳月院」と書かれていることに気付きました.
(決して,上の海戸神社の引用文で変換間違えしたわけじゃないですよ…)
だいぶ前にタルイピアセンターのとある企画展を見に行ったとき,展示パネルの中に「徳月院」と書かれていたことに後々気付き,「まあ変換ミスだろうな~」なんて思っていたんですが,今回読んだ自治体史でも「徳月院」と書かれていることに気付いてしまったため,これはまた調べないといけなくなってしまいました…
地名ならまだ分かるんですけど,人の名前で戒名ともあれば,その当時は恐らく一つに決まってると思うのですが…
(人の名前(普通の)としては,漢字がいくつかあったりするのは分かりますが…)
はあ…湧き上がるだけで減らない疑問…

それともうひとつ,特に今一番気になる話,得月院様の容姿に関する(知っている限り唯一の)逸話で,以下のようなものがあります.
「安藤守就の娘は大層な醜女であったが,半兵衛はその娘を喜んで妻に迎えた.曰く,『妻が美人であると,付け上がったり,いらぬ執着心が湧いて留守中の不義を心配したりすることになる.それよりは,心根の優しい者であればよい.』」(超要約)
だいぶ前に偶然知った話で,以来その出所が気になっています.
これまで色々と竹中氏関連の書籍は集めてきましたが,この件を載せている本は私の手持ちにはなく,たまたまツイッターにて,ご好意で,この話の載った本を教えていただきました.
今の所確認できるものでは,火坂雅志「武士の一言」(朝日新聞出版)と,「名将名言録」(トライエックス)というカレンダーの2つです.
ただやはり何の史料が元なのかは分からないでいます.
半兵衛の逸話の載ってそうな本を今当たっていますが,常山紀談,武家事紀,美濃国諸家系図,寛政重修諸家譜,研究書数冊,歴史読本などにはなく,あとは竹中家譜,竹中旧記,竹中家雑事記,竹中家古由書なんかの非公開史料か,安藤氏(安東・伊賀)関連にあるのかな…なんて思ってますが…
どなたかご存知の方いらっしゃいませんか…
というかもうここら辺の非公開史料を全部まとめて出版してください…
もう読解文とかいらないですから…自分で読みますからどうか…


…それではまた…(泣)


参考及び引用文献(記載頁数は主要部のみ)
「春日村史 下」,(1983),p.635-651.
「揖斐郡志」,(大正13年),p.689.

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30Apr
2016

揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は揖斐郡揖斐川町春日川合にある六社神社と海戸神社に行ってきました.
この二つは竹中氏と関係の深い神社のようです.
ご縁の内容は長くなりそうなので,とりあえず先にルート説明と写真をぽいぽいして,その後に詳しい説明をします.
*--20160504追記:この記事の追記を書きました.ーー*

少し古い地名でいうと,六社神社は春日村川合に,海戸神社は春日村川合の古屋という地にあります.(多分.)
海戸神社のある古屋は垂井町岩手の禅幢寺から北西6km弱の距離にありますが,垂井から直接繋がるルートは無いため,関ケ原町からのルート,池田山方面から山中を進むルート,粕川沿いに春日六合・春日香六と進んで春日川合から春日山中方面へ県道257号線を南下するルート,このいずれかでアクセスする必要があります.
今回は池田町から粕川沿いに進み(県道32号線),県道257号線始点の春日川合で六社神社に,その後同線を南下して古屋の海戸神社に訪れました.
粕川沿いの県道32号線は,春日香六あたりまでは比較的広い道路です.
こんな感じの景色が続きます.


写真と反対側にはちょくちょく茶畑があり,春日一帯でお茶の生産があるようです.
春日川合に入ると車一台分くらいの道幅になりますので,訪れる際は対向車に注意してください.

春日川合の「かわいばし」から県道257号線が始まり,進んでちょっとすると左手の道路脇に六社神社があります.
(余談ですが,県道32号線をそのまま進むと春日美束に入りますが,ここにも六社神社があるようです.)
駐車場はありませんので,神社の近くの広い場所に車を置きました.
道路の反対側には小学校があります.


石鳥居と神額


境内には岐阜県の重要文化財もありますが,内容は調べてないので分かりません.


六社神社から県道257号線を6,7km程進むと,海戸神社に辿り着きます.
こちらの神社も道路脇すぐにあります.
同じく駐車場はありませんので,近くの広い場所に停めました.
県道257号線は長谷川沿いの道路で,道幅は広かったり狭かったり…
奥のほうになると全体的に小ぢんまりとした雰囲気になります.
道中はこんな感じ.
(といってもこの左手に海戸神社があるんですけど…)


看板に池田明神線通り抜け不可とありますので,今の所は池田山方面と明神の森方面を繋ぐ道路のどこかしらが通れないということでしょうかね…


話を戻して海戸神社.
何か特別なものが見られるわけではありませんが,その穏やかさが好きで,長く過ごしていたくなります.


さて,ここからはこれらの神社と竹中氏との関係についてのお話です.
海戸神社は,元は開戸神社と書き,木花開邪姫命を祀る無格社です.
(建てられた年は分からないそう.)
竹中氏とも関係のある神社で,複数の棟札や記録が残っているそうです.
記録によると,その昔,半兵衛の妻・得月院が戦乱を避けるために池田郡粕川河合で過ごしていた折,守神としていたのがこの神社.
その後,岩手に戻る際に同地六社神社から御一体(仏像でしょうか)を持ち帰り,はじめは岩手山内塩ヶ谷口,後に岩井谷口に遷されました.
(参考にしている本では,「開戸神社は六社神社の末社であったのか?」との考えが示されています.)
明治44年になり,経営の問題と,神社を元の地に戻したいという思いから,再び移転することになります.
その際,開戸神社から海戸神社と改められ,春日村古屋の地で現在まで続いています.

六社神社に関する記述では,春日村史に「1600年に重門が関ケ原合戦の戦勝祈願をする」,「1600年に重門が開戸神社を岩手に奉遷する」,「得月院,川合六社神社へ戦勝祈願する」などがあるそうですが,岩手への遷宮と戦勝祈願のどちらが先か,得月院様が何の戦の戦勝祈願をしたのか,などは読んでいる本からは分かりません.
また,単純に読んでいると,得月院様がこの神社に訪れるきっかけとなった戦が関ケ原合戦のように思えてきますが,「元亀天正年間天下紛擾ノ際(神社移転許可出願理由書)」「十数年間(神社の記録)」過ごしていたという記述から,関ケ原合戦の際の避難ではないようです.
半兵衛公が信長公に仕えたのちの姉川合戦や横山城守備,小谷城攻めあたりは地理的にもそう遠くないですから,このあたりの戦での避難かと思います.
なおこの「十数年間」の間に子・重門も誕生し,重門公に関しては「岩手で生まれる」と一般にあるので,有事の際に,断続的に過ごしていたということでしょう.
(まあこの記述をそのまま信じた時の話です.)
「有事の際なら菩提山城に入れば?」と思うかもしれませんが,中井先生も絶賛するあの山城は重門公の年代に出来たものとのことなので,それ以前の城があれほどではなかったかもしれないことを思うと,春日村古屋への避難も妥当かと思います.
めっちゃ山の中ですし.

とりあえず,避難期間が元亀天正年間となると,得月院様がご仏像を持ち帰ってから重門公による遷宮までは期間が空くことになります.
ちなみに,岩手に遷宮したとのことですが,遷宮先の場所は今は明神湖底にあるそうです.
ちょっと悲しい…

それと,明治44年,海戸神社の再遷宮の願い出の理由を書いた「神社移転許可出願理由書」には,得月院様の避難先について「得月院殿池田郡粕川河合ニ潜ミ兵匁ヲ避ケ」という記述があり,同書で再遷宮に関して「古来揖斐郡春日村大字川合字古屋ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」とあるのですが,この二つ,パッと見て全然違う地名です.
(ちなみに「字」というのは恐らく読み取れない文字であることを意味しているのだと思います.)
しかし,明治22年まで春日村という地名はなく,池田郡であったこと,経年による河合や川合といった漢字の変化の可能性,「古来(の地)ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」という記述から,ほぼほぼ元の場所に戻されたものと思われます.
(垂井の相川も昔は藍川のようですし,長佐も今では表佐と書きますからね…)
まあ春日村川合って縦に長いんで何とも言えないですけどね.

ところで,得月院様が子が授かるようにと祈願したところも六社神社だったか六所神社だったような…
と思ったらどうやら六所神社のようですが,調べると六社神社も六所神社同じようで,池内先生編の本では「現・六社神社」とも記載され,元亀3年までには願掛けのために春日村から遷したものと推測される,となっています.
また,研究書ではありませんが,八尋先生の小説でも同じようなことが書かれています.
(共に1996年初出版.)

しかし検索すると垂井町綾戸にも六社神社があるのですが,川合六社神社とは関係あるんでしょうか…
と思って不破郡史めくったらかつての表佐村,荒崎村,静里村,綾里村にも…たくさん出ますね…
もうわからん…多分関係ないだろうな…社寺とか全然知らないし…
ちなみにですが,岐阜県内では春日美束,安八などにも複数現存するようです.
しかしそもそも岩井への遷宮の際に神社の名前を「開戸神社」としていたのか「六所神社(六社神社)」としていたのかが定かではありません.
ご仏像は六所(六社)神社から持ち帰ったのに遷宮したのは開戸(海戸)神社…?
…少なくとも,春日村への再遷宮時には「開戸(海戸)神社」であることは確かですが.
また,孫引き状態ですが,春日村史では六社神社と開戸神社がほぼ同一のものとして記述されているように見受けられます.
とりあえず,恐らく,得月院様が願掛けをした六社神社(六所神社)というのが,今回訪れた六社神社であるようです.
確証はないです.


こんなところで今日は終わりにしようと思います.
なんかもう年代とかがばらばらなんで考えるのやめました.
いつもの如く,書籍情報を鵜呑みにして受け売りしてますし,こうじゃないかな~というのも無い頭を使って捻り出してるものなので,当てにしないでください.
私は得月院様がすごく好きなのですが,得月院様に関係するあれこれをほとんど見かけないので,たまたま本の中でこの神社のお話を見つけた時は大歓喜でした.
その勢いのまま訪れたのが今回の旅行です.
今日初めて揖斐川町春日と池田町に来たわけですが,共にすごく良い風景の中にあって,暮らしの穏やかそうな所でした.
池田町に関しては娯楽も充実しているようでした.
またふらっと行きたくなる場所です.
それではまた.

参考及び引用文献
垂井町文化財保護協会(H4),「垂井の文化財(第十六集)」,p46-p54.
池内昭一編(1996),新人物往来社「竹中半兵衛のすべて」,p.186-p.187.
八尋舜右(1996),PHP「竹中半兵衛 秀吉を天下人にした軍師」.
不破郡史下巻.

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09Jan
2016

新春垂井初め 竹中半兵衛ワークショップ参加と南宮大社初詣

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は垂井町観光協会主催の竹中半兵衛街歩きワークショップに参加してきました.
年が明けてから初めての垂井,天気も良く史跡巡り日和でした.(ただし風は冷たかったです…)
年明け初めてといっても大晦日に来てるのであんまり心持ちは変わっていません.

元々HPでは行程が「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」となっていましたが,実際は「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→明泉寺→不破矢足の墓→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」でした.
およそ3kmほどの行程です.
目的地間は旧道を多く利用しました.
案内は主に竹中半兵衛重治公顕彰会の方がしてくださいました.
以下では自分用のメモとしても流れや話を雑多にまとめていきます.
調べればすぐ分かる事項(現地の案内看板にある内容など)についてはさらっと記述するだけにします.
本気で書いたらくそ長くなるので…
それと聞いた話は一応メモをしたものをもとにしていますが,うろ覚えな部分もあるので念頭に置いておいてください.

いつもの如く,凛々しくていらっしゃいますね.


受付でお茶と観光パンフレットを受け取り,まずは竹中氏陣屋跡の説明を受けます.
竹中氏陣屋は関ヶ原合戦後,半兵衛の息子・重門により作られたもので,今は櫓門と外堀の一部が残るのみとなっています.
関ヶ原合戦後の処理のため,家康はその地の領主であった重門に一千石を下賜します.
それを資金として陣屋の整備をしたのではとも言われているらしく,そのため堀は「千石堀」とも言うんだとか.
堀のあたりに石垣がありますが,これは昭和50年に整備をして石積みとしたもので,それまでは土手だったそうです(昭和20年くらいの話).
ですが実際過去は土積みだったかもしれないとのことで,はっきりとはしていないらしい…(?)
今現在見ることのできる堀は櫓門の南側のものだけで,北側は埋め立てられています.
現在は発掘調査中の立看板があります.
何か発展があると嬉しいですね.期待しています.
櫓門をくぐった先には学校があり,北側から登校する子たちは今でもその門を通って学校に通っています.
同じく櫓門をくぐって学校より北側は竹中家の方が暮らしています.(見学はできません.)
その一帯は竹林となっていますが,少し移動してよく見てみると,土塁や堀があるのが分かります.
江戸時代に陣屋の取り壊し令が出ましたが,櫓門はなんとか保護したそうです.
石垣の上に登ると菩提山城址が良く見えます.

さて陣屋跡から禅幢寺に移動します.
移動途中の左手にはところどころ石垣がありますが,元々は2m位の幅の道がその石垣沿いにあり,それが旧道だったのだそうです.
その他にも,その道の脇に入る道など,うねった道は旧道なんだとか.
いざ敵が攻め込んできた時,一気に押し寄せられないように多くの曲がり角を設けたものです.
旧道がどのように走っていたかは菁莪記念館(後述)内のジオラマで確認できます.
陣屋跡の少し北には寺島氏の家があります.
半兵衛の孫(重門の息子)・重常の代に重門の妻の家・加藤氏(伊予国)へ奉公に出た家臣が,7代・重長の時に戻ってきて,ここに収まったそうです(超うろ覚え).
(ちなみに7代のお名前を調べたら「重長」と出てきましたが案内の時は「しげよし」と聞こえたような気がしなくもないけど結局良く分からないので信じないでね…☆)

まあそんな話を聞きながら禅幢寺に着きました.
禅幢寺は竹中氏の菩提寺です.
禅幢寺の門の外に石碑が建っているのですが,良く見ると左下の元々文字があった場所が埋められています.
この石碑,元は垂井駅の西の端にあったもので,禅幢寺までの距離が掘ってありました.
今では禅幢寺の前に移動されたので,距離の部分を消したわけです.
門をくぐると正面にお堂があります.
調査の結果,このお堂の梁は修復されたものですが,柱は江戸時代のものだそうです.
竹中家と黒田家は繋がりが深く,お堂には黒田長政の位牌もあります.
お堂から左手に進んだ奥にはお墓が並んでいます.
調査により誰のお墓であるのかは大方判明しているそうです.
半兵衛公のお墓もある上段には竹中氏とその妻のお墓が並びます.
石階段を昇った左奥,木の小さな祠が半兵衛公のお墓で,中には五輪塔があります.
その右隣の同様のお墓が父・重元のものです.
その間にあるのが半兵衛の妻・得月院のお墓です.
歴代当主でこの場所にお墓がないのは,2代・重門と14代・重固だそうです.
重固については敗戦が理由とのこと.
上段の東側下段は家臣団のお墓です.
その他に,安藤氏,加藤氏,小西行長,吉田松陰と交流のあった人物のお墓などがあります.

ちなみに半兵衛の父の名は「重元」というのはご存知かと思いますが,今まで地元の方を中心にこの名前を「しげちか」と読んでいました.
しかし最近は「やっぱりそうは読まないだろう」ということで「しげちか」から「しげもと」に変わる可能性もあるようです.
個人的には若干まあそうだろうね感がありますね…

禅幢寺を出て明泉寺に移動します.
元の道から脇に入り,旧道を歩きました.
実は明泉寺は私も初めて訪れました.
明泉寺には,竹中氏が来る以前この一帯を治めていた岩手氏のお墓があります.(中に入るには許可が必要らしい?)
元々は禅幢寺が岩手氏の菩提寺だったそうですが,今は明泉寺が菩提寺です(超うろ覚え).
そして明泉寺にも小西行長のお墓があります.
しかしこれが謎で,そのお墓は関ヶ原合戦よりも前のものらしく(岩手氏の時代だったかな…),不破氏の家来(岩手氏の家来?)2人の名前が書かれています.
これがどういう経緯で小西行長のお墓になったのかは不明とのことです.

明泉寺から不破矢足のお墓に移動します.
明泉寺から南東方向に少し歩くと川があります.
そのあたりは木場(木屋,きば・きや)と呼ばれ,建築木材などを集めた場所だったそうです.
川沿いの旧道を南下すると,左方が大きく開けます.
その開けた土地に岩手氏の屋敷などがあったそうです.

さて,不破矢足のお墓です.
お墓の位置については以前の記事をご覧下さい.
墓前にあんころ餅がお供えしてあり,交流させていただいている方と一時黄粉餅談議で盛り上がりました.
矢足の西側のお墓は矢足の妻のものです.
ここで不破氏(喜多村氏)の姓についてのお話もありました.
北村氏は元は岩手氏の家臣です.
ここに,府中不破氏(不破弥次(郎)のちに北村十助)が養子に入ったとのこと.
(詳しくは矢足の母が北村家でそこに嗣子がなく,矢足が事実上の後継者となったとのこと.)
のちに岩手氏と親戚関係にある竹中重元が岩手氏を追放(永禄元年,1558年)しましたが,この時十助は竹中氏側につきました.(なお他の北村2家は岩手氏につきました.)
結局この戦いで竹中氏が勝利し,岩手氏は追放されます.
北村氏は以前に仕えていた主君を裏切った,もしくは竹中氏に寝返ったということで,以来北村姓をやめて喜多村姓に名乗り替えたとのこと.
「不破矢足」を名乗ったのは姉川合戦後の29歳から.
(ちなみに不破さんの家譜には「晩年矢足と称す」という旨の記述があるようですが,70代まで生きて晩年という表現は相応しいのか否か…いやもしかして晩年の意味が違うのかもしれないですけど…)
それ以降時代が下って喜多村姓に戻したいとか云々かんぬんお話がありましたが酷いうろ覚えなので書きません.
詳しくは不破家譜にあるのでそっちを見てね.
(主にお家再興のためです.)
お話メモしたんですがうろ覚えすぎてあれだったんで,「もしかしたら不破(喜多村)家譜に載ってるかもしれないな~」と思い,せっかくなので不破家譜読んで所々補足入れてあります.
(タルイピアセンターで家譜コピーしたけど矢足の頁あたりをさっと見ただけで宝の持ち腐れしてるなんて口が裂けても言えない…)
まだ何も知らん頃は「戦場で足に矢を受けても奮戦した十助に対し,半兵衛が不破矢足と名乗るよう勧めた」という話を知って,「足に矢を受けても破られず」の意味で「不破矢足」としたのかと思っていました.
しかし『不破の地名』という本にも紹介のある通り「不破」という地名は元からあって,そこに根付いた家が不破氏と称し,それが矢足の父の家系だったのでしょう.
つまり矢足の名を受ける前に北村(喜多村)姓を名乗っていたにせよ,不破姓は元から持ち合わせていたわけです.
そして前述のとおりのことがあって,北村姓から喜多村姓を経て不破姓になった.
ですから半兵衛はあくまで「矢足」の名を与えたのであって,「不破矢足」の名を与えたのではないように思いますけれど,頭の良い半兵衛ならば「不破」に掛けて「矢足」の名を与えた可能性もありますね.
しかし父方の姓が不破だったにせよ,なぜ喜多村姓から不破姓にしたんでしょうか…
そこだけ今疑問が残っています…
ちなみにですが,案内の方(おそらく地元の方)は「十助」を「じゅうすけ」,「矢足」を「やそく」と呼んでいました.

続いて道路を渡った所にある五明稲荷神社です.
松寿丸お手植えの銀杏の木があります.
木本体は枯れかけていますが,今は根元から伸びた枝を保護して育てています.
今日見たら新たに囲いが設けられていました.
垂井の泉の大欅といい,松寿丸の銀杏といい,長く地域にあり不動であったものがなくなっていくのは寂しいですね.
この神社,実は竹中氏の岩手入り以前からある古いお稲荷さんだそうですが,古文書等が一切見つからないため,調査が進まないそうです.
この地一帯の史料と言えるものはやはり岩崎神社の棟札しかないとのこと.
父・重元についても長良川合戦以前は不明な点が多いです.
五明稲荷神社の南の石鳥居は,昭和16年に黒田家より寄進されたものです.

五明稲荷から菁莪記念館への移動途中,至る所に井戸があります.
これは武家屋敷の名残なのだそうです.
菁莪記念館は元は菁莪堂と言い,15代・重明が開いた藩校です.
何度か名称変更や建て替えがされたそうですが,入口のポーチのみは,ずっと同じものを使用しているそうです.
現在は竹中氏や教育に関わる展示物850点を所蔵し,内52%が竹中氏関連とのことです.
前述のとおり陣屋とその周辺のジオラマもあり,陣屋だけでなく,曲がり角のたくさんある旧道,木場なども確認することが出来ます.
ただし案内の方も言っていましたが,時代別の展示等にはなっていないので,かなり雑多に置いてある感じがします…(^▽^)

その後はお隣の公民館に移動して意見交換会.
とらやんさんの半兵衛もちを振る舞っていただきまして,半兵衛もち好きの私はその場で食べずにバッグの中にそっとしまいました…(お家で食べました.)
ちょっとした意見や感想が出て,今後の参考となるようです.

余談ですが,前に禅幢寺の半兵衛の弟・久作のお墓にある説明書きのちょっとした年号間違いを見つけてずっと気になっていまして,書いた方もまだお気付きないようでしたので,ワークショップ終了後に然るべき方にお伝えしました.
「良く勉強しとるね」とお褒めの言葉を賜りましたが,「ひとえに外部記憶装置(ネットや自分のまとめExcel)のおかげです…」なんて言えず…笑
加えて余談ですが,前に参加させていただいた知的評定ビブリオバトルin垂井でご一緒させていただいた方が複数名見え,さらに帰り際に寄ったグルマンさんで更に複数名(別の方)に鉢合わせするという,なんとも濃ゆい垂井初めになりました…本当に濃ゆい…

ワークショップ後は南宮大社さんで初詣.
三が日が明けてはじめの週末なのでまだまだ駐車場待ちの列がありましたが,初詣なので駐車場の回転率は良いです.
あまり待たずに駐車できました.
青空の日ほど南宮さんは映えますね.


交通安全守と鈴守を手に入れました.


鈴守の音は綺麗で大きめです.
かねてより欲しかった熊除け鈴の代わりも兼ねて(罰当たりですみません…),山城巡り用のリュックに付けました.


そんなこんなでワークショップと初詣でした.
間違いの指摘などはめっちゃ受け付けます.
それではまた.

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