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19Apr
2024

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30Apr
2016

揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は揖斐郡揖斐川町春日川合にある六社神社と海戸神社に行ってきました.
この二つは竹中氏と関係の深い神社のようです.
ご縁の内容は長くなりそうなので,とりあえず先にルート説明と写真をぽいぽいして,その後に詳しい説明をします.
*--20160504追記:この記事の追記を書きました.ーー*

少し古い地名でいうと,六社神社は春日村川合に,海戸神社は春日村川合の古屋という地にあります.(多分.)
海戸神社のある古屋は垂井町岩手の禅幢寺から北西6km弱の距離にありますが,垂井から直接繋がるルートは無いため,関ケ原町からのルート,池田山方面から山中を進むルート,粕川沿いに春日六合・春日香六と進んで春日川合から春日山中方面へ県道257号線を南下するルート,このいずれかでアクセスする必要があります.
今回は池田町から粕川沿いに進み(県道32号線),県道257号線始点の春日川合で六社神社に,その後同線を南下して古屋の海戸神社に訪れました.
粕川沿いの県道32号線は,春日香六あたりまでは比較的広い道路です.
こんな感じの景色が続きます.


写真と反対側にはちょくちょく茶畑があり,春日一帯でお茶の生産があるようです.
春日川合に入ると車一台分くらいの道幅になりますので,訪れる際は対向車に注意してください.

春日川合の「かわいばし」から県道257号線が始まり,進んでちょっとすると左手の道路脇に六社神社があります.
(余談ですが,県道32号線をそのまま進むと春日美束に入りますが,ここにも六社神社があるようです.)
駐車場はありませんので,神社の近くの広い場所に車を置きました.
道路の反対側には小学校があります.


石鳥居と神額


境内には岐阜県の重要文化財もありますが,内容は調べてないので分かりません.


六社神社から県道257号線を6,7km程進むと,海戸神社に辿り着きます.
こちらの神社も道路脇すぐにあります.
同じく駐車場はありませんので,近くの広い場所に停めました.
県道257号線は長谷川沿いの道路で,道幅は広かったり狭かったり…
奥のほうになると全体的に小ぢんまりとした雰囲気になります.
道中はこんな感じ.
(といってもこの左手に海戸神社があるんですけど…)


看板に池田明神線通り抜け不可とありますので,今の所は池田山方面と明神の森方面を繋ぐ道路のどこかしらが通れないということでしょうかね…


話を戻して海戸神社.
何か特別なものが見られるわけではありませんが,その穏やかさが好きで,長く過ごしていたくなります.


さて,ここからはこれらの神社と竹中氏との関係についてのお話です.
海戸神社は,元は開戸神社と書き,木花開邪姫命を祀る無格社です.
(建てられた年は分からないそう.)
竹中氏とも関係のある神社で,複数の棟札や記録が残っているそうです.
記録によると,その昔,半兵衛の妻・得月院が戦乱を避けるために池田郡粕川河合で過ごしていた折,守神としていたのがこの神社.
その後,岩手に戻る際に同地六社神社から御一体(仏像でしょうか)を持ち帰り,はじめは岩手山内塩ヶ谷口,後に岩井谷口に遷されました.
(参考にしている本では,「開戸神社は六社神社の末社であったのか?」との考えが示されています.)
明治44年になり,経営の問題と,神社を元の地に戻したいという思いから,再び移転することになります.
その際,開戸神社から海戸神社と改められ,春日村古屋の地で現在まで続いています.

六社神社に関する記述では,春日村史に「1600年に重門が関ケ原合戦の戦勝祈願をする」,「1600年に重門が開戸神社を岩手に奉遷する」,「得月院,川合六社神社へ戦勝祈願する」などがあるそうですが,岩手への遷宮と戦勝祈願のどちらが先か,得月院様が何の戦の戦勝祈願をしたのか,などは読んでいる本からは分かりません.
また,単純に読んでいると,得月院様がこの神社に訪れるきっかけとなった戦が関ケ原合戦のように思えてきますが,「元亀天正年間天下紛擾ノ際(神社移転許可出願理由書)」「十数年間(神社の記録)」過ごしていたという記述から,関ケ原合戦の際の避難ではないようです.
半兵衛公が信長公に仕えたのちの姉川合戦や横山城守備,小谷城攻めあたりは地理的にもそう遠くないですから,このあたりの戦での避難かと思います.
なおこの「十数年間」の間に子・重門も誕生し,重門公に関しては「岩手で生まれる」と一般にあるので,有事の際に,断続的に過ごしていたということでしょう.
(まあこの記述をそのまま信じた時の話です.)
「有事の際なら菩提山城に入れば?」と思うかもしれませんが,中井先生も絶賛するあの山城は重門公の年代に出来たものとのことなので,それ以前の城があれほどではなかったかもしれないことを思うと,春日村古屋への避難も妥当かと思います.
めっちゃ山の中ですし.

とりあえず,避難期間が元亀天正年間となると,得月院様がご仏像を持ち帰ってから重門公による遷宮までは期間が空くことになります.
ちなみに,岩手に遷宮したとのことですが,遷宮先の場所は今は明神湖底にあるそうです.
ちょっと悲しい…

それと,明治44年,海戸神社の再遷宮の願い出の理由を書いた「神社移転許可出願理由書」には,得月院様の避難先について「得月院殿池田郡粕川河合ニ潜ミ兵匁ヲ避ケ」という記述があり,同書で再遷宮に関して「古来揖斐郡春日村大字川合字古屋ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」とあるのですが,この二つ,パッと見て全然違う地名です.
(ちなみに「字」というのは恐らく読み取れない文字であることを意味しているのだと思います.)
しかし,明治22年まで春日村という地名はなく,池田郡であったこと,経年による河合や川合といった漢字の変化の可能性,「古来(の地)ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」という記述から,ほぼほぼ元の場所に戻されたものと思われます.
(垂井の相川も昔は藍川のようですし,長佐も今では表佐と書きますからね…)
まあ春日村川合って縦に長いんで何とも言えないですけどね.

ところで,得月院様が子が授かるようにと祈願したところも六社神社だったか六所神社だったような…
と思ったらどうやら六所神社のようですが,調べると六社神社も六所神社同じようで,池内先生編の本では「現・六社神社」とも記載され,元亀3年までには願掛けのために春日村から遷したものと推測される,となっています.
また,研究書ではありませんが,八尋先生の小説でも同じようなことが書かれています.
(共に1996年初出版.)

しかし検索すると垂井町綾戸にも六社神社があるのですが,川合六社神社とは関係あるんでしょうか…
と思って不破郡史めくったらかつての表佐村,荒崎村,静里村,綾里村にも…たくさん出ますね…
もうわからん…多分関係ないだろうな…社寺とか全然知らないし…
ちなみにですが,岐阜県内では春日美束,安八などにも複数現存するようです.
しかしそもそも岩井への遷宮の際に神社の名前を「開戸神社」としていたのか「六所神社(六社神社)」としていたのかが定かではありません.
ご仏像は六所(六社)神社から持ち帰ったのに遷宮したのは開戸(海戸)神社…?
…少なくとも,春日村への再遷宮時には「開戸(海戸)神社」であることは確かですが.
また,孫引き状態ですが,春日村史では六社神社と開戸神社がほぼ同一のものとして記述されているように見受けられます.
とりあえず,恐らく,得月院様が願掛けをした六社神社(六所神社)というのが,今回訪れた六社神社であるようです.
確証はないです.


こんなところで今日は終わりにしようと思います.
なんかもう年代とかがばらばらなんで考えるのやめました.
いつもの如く,書籍情報を鵜呑みにして受け売りしてますし,こうじゃないかな~というのも無い頭を使って捻り出してるものなので,当てにしないでください.
私は得月院様がすごく好きなのですが,得月院様に関係するあれこれをほとんど見かけないので,たまたま本の中でこの神社のお話を見つけた時は大歓喜でした.
その勢いのまま訪れたのが今回の旅行です.
今日初めて揖斐川町春日と池田町に来たわけですが,共にすごく良い風景の中にあって,暮らしの穏やかそうな所でした.
池田町に関しては娯楽も充実しているようでした.
またふらっと行きたくなる場所です.
それではまた.

参考及び引用文献
垂井町文化財保護協会(H4),「垂井の文化財(第十六集)」,p46-p54.
池内昭一編(1996),新人物往来社「竹中半兵衛のすべて」,p.186-p.187.
八尋舜右(1996),PHP「竹中半兵衛 秀吉を天下人にした軍師」.
不破郡史下巻.
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