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04May
2016

六社神社・海戸神社に関する追記と余談

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
前回の記事「揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました」では,2つの神社と竹中氏との関わりを書きました.
これについて,関連の書籍を追加で見てきたので,少し追記したいと思います.

まず,春日村史の当該部を閲覧した結果について.
春日村史に記載の神社は,その数も非常に多く,「六社神社」だけでも複数存在します.
しかし,その中で竹中氏に関する記録があるのは,前回の記事で紹介した2社のみのようです.
以下は,春日村史及び揖斐郡志からまとめたものです.

・六社神社(川合)
火災に見舞われたことがあるものの,棟札16枚が残っている神社で,重門・重常と代々による奉祀の記録が確認できます.
記録の一部では,
この神社は竹中重門が関ヶ原合戦の折に戦勝祈願をした神社で,その結果味方が勝利し,当社の床下に隠れていた者を捕まえた.
以来,その謝恩として,毎年米一石を神社に納めた.
(いつまでお米を納めていたかはメモし忘れました…すみません…)
とのことです.
春日村史内には遷宮の記録は載ってません.
神社の名称の遷移は,六社大明神之宮(元禄13年・古来帳),六社大明神(宝暦9年・神社改帳),同(明和元年・万明細帳),同(寛政8年・同),六社神社(明治5年・同)となっています.

・海戸神社
春日村史記載の昭和20年調の神社明細帳より,
「海戸神社は往昔より川合村字宮に鎮座したるに,岩手領主竹中重門の崇敬厚く,氏子に請ふて岩手村へ遷座し代々奉祀したるを,古屋住民は由緒に基きて竹中氏に請ひ大正弐年拾壱月古屋の現位置へ遷座移宮したるものなり.」
また,揖斐郡志には,
「海戸神社川合字古屋鎮座,祭神木花開邪姫命,勧請年月不詳,慶長五年岩手城主竹中重門母徳月院,此地に兵乱を避け祈願小康得たれば,岩手に奉遷崇敬す,明治四十四年八月遷座す.」
とあります.


で,自治体史を読んだ結果,前回の記事で書いたことに関して間違いがいくつか出たので,以下で訂正しようと思います.
前回の記事で,一番最初に参考にした本「垂井の文化財」を読むと,「春日村史の中では,六社神社と海戸神社を同一のものとみなしたような記述がされている」と読み取れ,またそのような趣旨のことをブログに書きました.
ですが,春日村史を読む限りでは,2社は独立して書かれています.
「垂井の文化財」の中で,どういった経緯で「海戸神社は六社神社の末社か?」という結論に至ったのかは分かりません.
また,2社は別社ということから,岩手(岩井)に遷宮したのはあくまで海戸(開戸)神社のようです.
(自治体史を読んだ限りの話.)
六社神社については,自治体史からは遷宮の記録が確認できませんでしたが,神社の記録自体に書いてある可能性があります.
竹中氏関連の書籍で,春日村から遷座したとされる神社が本当に六社神社であるのか,海戸神社であるのかも,出典が詳しく書いてあるわけではないので良く分かりません.
まあ今回図書館に春日村史の上巻がなく,中を確認できなかったのも一因の可能性がありますが…
神社の記録も全部が自治体史に載せてあるわけではありませんし,どうしてもそこら辺まで突っ込もうとすると,一個人では限界があります.
今回の話は神社の記録次第ということです.
また,前回「得月院様が避難した原因の戦は,姉川合戦などではないか~」みたいなこと書きましたが,これも今回「慶長五年」「関ケ原合戦」という記述から,間違っていたみたいなので,訂正します.
ではあの「元亀天正」の「十数年間」は何なのか…
ギブミー神社の記録…
さらに,「得月院様がお子が授かるようにと願掛けをした六社神社」と,「戦勝祈願した六社神社」が別の神社である可能性も0ではありません.
少なくとも神社の記録から後者は今回訪れた六社神社と判明しているようですが.
竹中氏関連書籍では「春日村の六社神社」となっており,竹中氏と関係のありそうな六社神社はここくらいなので,同一である可能性は高いですが,「願掛けのために訪れた,もしくは遷宮した」という記述は今の所確認しておりませんので,何とも言い難いです.
また,今回見た自治体史の中では,「得月院様がご仏像を持ち帰った」という事項は見つけられませんでした.
こういう雑記的・逸話的なのは自治体史では載ってなさそうですしね…
あと,「『字』って読めない字だと思います」とか言いましたが,これも多分違いますね…
本当,このブログを信じるのだけはやめてくださいね…
素人が足掻いてる記録を残すだけのブログなんで…

別の話ですが…
六社神社の項にある「床下にいた者を捕まえた」ってのは恐らく小西行長のことかと思いますが,同じく春日村の中山にある「小西神社」にも同じ話があるようで,前者は単に「床下にいた者」で,後者は「小西行長」であると書かれているようです.
(実際の記録は見てないので知りません.)
合戦後,隠れていた小西行長を捕えたことによる祟りか,火災に見舞われることが多々あり,禅幢寺に小西行長の墓を建てて供養した,という話は知っていましたが,このあたりの神社に隠れていたという伝えがあるのは知りませんでした.
小西神社について,春日村史によると,「小西行長を捕えたあとに火事が相次ぎ,その地の人が憐れんで,行長の残した小刀を埋めて墓地としたのが始まりである.その後に(色々あって)神社とし,今に至る.(超要約)」だそうです.
小西行長の小刀について,何か別の話があったような…と思わなくもないですが,それはまた時間のある時に調べるかもしれません.


んで,タイトルにあるように,ここからは余談(本人的には余談でない)をしたいと思います.
前回の記事にあるように,得月院様に興味があって,最近はその辺の史料探しをしたい気持ちが強いです.
なんですけど,やっぱり一筋縄ではいかなくて,尻尾を掴むどころか尻尾を見つけることすら出来ません.
今回,春日村史と揖斐郡志を読んでいると,その中で「徳月院」と書かれていることに気付きました.
(決して,上の海戸神社の引用文で変換間違えしたわけじゃないですよ…)
だいぶ前にタルイピアセンターのとある企画展を見に行ったとき,展示パネルの中に「徳月院」と書かれていたことに後々気付き,「まあ変換ミスだろうな~」なんて思っていたんですが,今回読んだ自治体史でも「徳月院」と書かれていることに気付いてしまったため,これはまた調べないといけなくなってしまいました…
地名ならまだ分かるんですけど,人の名前で戒名ともあれば,その当時は恐らく一つに決まってると思うのですが…
(人の名前(普通の)としては,漢字がいくつかあったりするのは分かりますが…)
はあ…湧き上がるだけで減らない疑問…

それともうひとつ,特に今一番気になる話,得月院様の容姿に関する(知っている限り唯一の)逸話で,以下のようなものがあります.
「安藤守就の娘は大層な醜女であったが,半兵衛はその娘を喜んで妻に迎えた.曰く,『妻が美人であると,付け上がったり,いらぬ執着心が湧いて留守中の不義を心配したりすることになる.それよりは,心根の優しい者であればよい.』」(超要約)
だいぶ前に偶然知った話で,以来その出所が気になっています.
これまで色々と竹中氏関連の書籍は集めてきましたが,この件を載せている本は私の手持ちにはなく,たまたまツイッターにて,ご好意で,この話の載った本を教えていただきました.
今の所確認できるものでは,火坂雅志「武士の一言」(朝日新聞出版)と,「名将名言録」(トライエックス)というカレンダーの2つです.
ただやはり何の史料が元なのかは分からないでいます.
半兵衛の逸話の載ってそうな本を今当たっていますが,常山紀談,武家事紀,美濃国諸家系図,寛政重修諸家譜,研究書数冊,歴史読本などにはなく,あとは竹中家譜,竹中旧記,竹中家雑事記,竹中家古由書なんかの非公開史料か,安藤氏(安東・伊賀)関連にあるのかな…なんて思ってますが…
どなたかご存知の方いらっしゃいませんか…
というかもうここら辺の非公開史料を全部まとめて出版してください…
もう読解文とかいらないですから…自分で読みますからどうか…


…それではまた…(泣)


参考及び引用文献(記載頁数は主要部のみ)
「春日村史 下」,(1983),p.635-651.
「揖斐郡志」,(大正13年),p.689.
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