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27Apr
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09Jan
2016

新春垂井初め 竹中半兵衛ワークショップ参加と南宮大社初詣

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は垂井町観光協会主催の竹中半兵衛街歩きワークショップに参加してきました.
年が明けてから初めての垂井,天気も良く史跡巡り日和でした.(ただし風は冷たかったです…)
年明け初めてといっても大晦日に来てるのであんまり心持ちは変わっていません.

元々HPでは行程が「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」となっていましたが,実際は「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→明泉寺→不破矢足の墓→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」でした.
およそ3kmほどの行程です.
目的地間は旧道を多く利用しました.
案内は主に竹中半兵衛重治公顕彰会の方がしてくださいました.
以下では自分用のメモとしても流れや話を雑多にまとめていきます.
調べればすぐ分かる事項(現地の案内看板にある内容など)についてはさらっと記述するだけにします.
本気で書いたらくそ長くなるので…
それと聞いた話は一応メモをしたものをもとにしていますが,うろ覚えな部分もあるので念頭に置いておいてください.

いつもの如く,凛々しくていらっしゃいますね.


受付でお茶と観光パンフレットを受け取り,まずは竹中氏陣屋跡の説明を受けます.
竹中氏陣屋は関ヶ原合戦後,半兵衛の息子・重門により作られたもので,今は櫓門と外堀の一部が残るのみとなっています.
関ヶ原合戦後の処理のため,家康はその地の領主であった重門に一千石を下賜します.
それを資金として陣屋の整備をしたのではとも言われているらしく,そのため堀は「千石堀」とも言うんだとか.
堀のあたりに石垣がありますが,これは昭和50年に整備をして石積みとしたもので,それまでは土手だったそうです(昭和20年くらいの話).
ですが実際過去は土積みだったかもしれないとのことで,はっきりとはしていないらしい…(?)
今現在見ることのできる堀は櫓門の南側のものだけで,北側は埋め立てられています.
現在は発掘調査中の立看板があります.
何か発展があると嬉しいですね.期待しています.
櫓門をくぐった先には学校があり,北側から登校する子たちは今でもその門を通って学校に通っています.
同じく櫓門をくぐって学校より北側は竹中家の方が暮らしています.(見学はできません.)
その一帯は竹林となっていますが,少し移動してよく見てみると,土塁や堀があるのが分かります.
江戸時代に陣屋の取り壊し令が出ましたが,櫓門はなんとか保護したそうです.
石垣の上に登ると菩提山城址が良く見えます.

さて陣屋跡から禅幢寺に移動します.
移動途中の左手にはところどころ石垣がありますが,元々は2m位の幅の道がその石垣沿いにあり,それが旧道だったのだそうです.
その他にも,その道の脇に入る道など,うねった道は旧道なんだとか.
いざ敵が攻め込んできた時,一気に押し寄せられないように多くの曲がり角を設けたものです.
旧道がどのように走っていたかは菁莪記念館(後述)内のジオラマで確認できます.
陣屋跡の少し北には寺島氏の家があります.
半兵衛の孫(重門の息子)・重常の代に重門の妻の家・加藤氏(伊予国)へ奉公に出た家臣が,7代・重長の時に戻ってきて,ここに収まったそうです(超うろ覚え).
(ちなみに7代のお名前を調べたら「重長」と出てきましたが案内の時は「しげよし」と聞こえたような気がしなくもないけど結局良く分からないので信じないでね…☆)

まあそんな話を聞きながら禅幢寺に着きました.
禅幢寺は竹中氏の菩提寺です.
禅幢寺の門の外に石碑が建っているのですが,良く見ると左下の元々文字があった場所が埋められています.
この石碑,元は垂井駅の西の端にあったもので,禅幢寺までの距離が掘ってありました.
今では禅幢寺の前に移動されたので,距離の部分を消したわけです.
門をくぐると正面にお堂があります.
調査の結果,このお堂の梁は修復されたものですが,柱は江戸時代のものだそうです.
竹中家と黒田家は繋がりが深く,お堂には黒田長政の位牌もあります.
お堂から左手に進んだ奥にはお墓が並んでいます.
調査により誰のお墓であるのかは大方判明しているそうです.
半兵衛公のお墓もある上段には竹中氏とその妻のお墓が並びます.
石階段を昇った左奥,木の小さな祠が半兵衛公のお墓で,中には五輪塔があります.
その右隣の同様のお墓が父・重元のものです.
その間にあるのが半兵衛の妻・得月院のお墓です.
歴代当主でこの場所にお墓がないのは,2代・重門と14代・重固だそうです.
重固については敗戦が理由とのこと.
上段の東側下段は家臣団のお墓です.
その他に,安藤氏,加藤氏,小西行長,吉田松陰と交流のあった人物のお墓などがあります.

ちなみに半兵衛の父の名は「重元」というのはご存知かと思いますが,今まで地元の方を中心にこの名前を「しげちか」と読んでいました.
しかし最近は「やっぱりそうは読まないだろう」ということで「しげちか」から「しげもと」に変わる可能性もあるようです.
個人的には若干まあそうだろうね感がありますね…

禅幢寺を出て明泉寺に移動します.
元の道から脇に入り,旧道を歩きました.
実は明泉寺は私も初めて訪れました.
明泉寺には,竹中氏が来る以前この一帯を治めていた岩手氏のお墓があります.(中に入るには許可が必要らしい?)
元々は禅幢寺が岩手氏の菩提寺だったそうですが,今は明泉寺が菩提寺です(超うろ覚え).
そして明泉寺にも小西行長のお墓があります.
しかしこれが謎で,そのお墓は関ヶ原合戦よりも前のものらしく(岩手氏の時代だったかな…),不破氏の家来(岩手氏の家来?)2人の名前が書かれています.
これがどういう経緯で小西行長のお墓になったのかは不明とのことです.

明泉寺から不破矢足のお墓に移動します.
明泉寺から南東方向に少し歩くと川があります.
そのあたりは木場(木屋,きば・きや)と呼ばれ,建築木材などを集めた場所だったそうです.
川沿いの旧道を南下すると,左方が大きく開けます.
その開けた土地に岩手氏の屋敷などがあったそうです.

さて,不破矢足のお墓です.
お墓の位置については以前の記事をご覧下さい.
墓前にあんころ餅がお供えしてあり,交流させていただいている方と一時黄粉餅談議で盛り上がりました.
矢足の西側のお墓は矢足の妻のものです.
ここで不破氏(喜多村氏)の姓についてのお話もありました.
北村氏は元は岩手氏の家臣です.
ここに,府中不破氏(不破弥次(郎)のちに北村十助)が養子に入ったとのこと.
(詳しくは矢足の母が北村家でそこに嗣子がなく,矢足が事実上の後継者となったとのこと.)
のちに岩手氏と親戚関係にある竹中重元が岩手氏を追放(永禄元年,1558年)しましたが,この時十助は竹中氏側につきました.(なお他の北村2家は岩手氏につきました.)
結局この戦いで竹中氏が勝利し,岩手氏は追放されます.
北村氏は以前に仕えていた主君を裏切った,もしくは竹中氏に寝返ったということで,以来北村姓をやめて喜多村姓に名乗り替えたとのこと.
「不破矢足」を名乗ったのは姉川合戦後の29歳から.
(ちなみに不破さんの家譜には「晩年矢足と称す」という旨の記述があるようですが,70代まで生きて晩年という表現は相応しいのか否か…いやもしかして晩年の意味が違うのかもしれないですけど…)
それ以降時代が下って喜多村姓に戻したいとか云々かんぬんお話がありましたが酷いうろ覚えなので書きません.
詳しくは不破家譜にあるのでそっちを見てね.
(主にお家再興のためです.)
お話メモしたんですがうろ覚えすぎてあれだったんで,「もしかしたら不破(喜多村)家譜に載ってるかもしれないな~」と思い,せっかくなので不破家譜読んで所々補足入れてあります.
(タルイピアセンターで家譜コピーしたけど矢足の頁あたりをさっと見ただけで宝の持ち腐れしてるなんて口が裂けても言えない…)
まだ何も知らん頃は「戦場で足に矢を受けても奮戦した十助に対し,半兵衛が不破矢足と名乗るよう勧めた」という話を知って,「足に矢を受けても破られず」の意味で「不破矢足」としたのかと思っていました.
しかし『不破の地名』という本にも紹介のある通り「不破」という地名は元からあって,そこに根付いた家が不破氏と称し,それが矢足の父の家系だったのでしょう.
つまり矢足の名を受ける前に北村(喜多村)姓を名乗っていたにせよ,不破姓は元から持ち合わせていたわけです.
そして前述のとおりのことがあって,北村姓から喜多村姓を経て不破姓になった.
ですから半兵衛はあくまで「矢足」の名を与えたのであって,「不破矢足」の名を与えたのではないように思いますけれど,頭の良い半兵衛ならば「不破」に掛けて「矢足」の名を与えた可能性もありますね.
しかし父方の姓が不破だったにせよ,なぜ喜多村姓から不破姓にしたんでしょうか…
そこだけ今疑問が残っています…
ちなみにですが,案内の方(おそらく地元の方)は「十助」を「じゅうすけ」,「矢足」を「やそく」と呼んでいました.

続いて道路を渡った所にある五明稲荷神社です.
松寿丸お手植えの銀杏の木があります.
木本体は枯れかけていますが,今は根元から伸びた枝を保護して育てています.
今日見たら新たに囲いが設けられていました.
垂井の泉の大欅といい,松寿丸の銀杏といい,長く地域にあり不動であったものがなくなっていくのは寂しいですね.
この神社,実は竹中氏の岩手入り以前からある古いお稲荷さんだそうですが,古文書等が一切見つからないため,調査が進まないそうです.
この地一帯の史料と言えるものはやはり岩崎神社の棟札しかないとのこと.
父・重元についても長良川合戦以前は不明な点が多いです.
五明稲荷神社の南の石鳥居は,昭和16年に黒田家より寄進されたものです.

五明稲荷から菁莪記念館への移動途中,至る所に井戸があります.
これは武家屋敷の名残なのだそうです.
菁莪記念館は元は菁莪堂と言い,15代・重明が開いた藩校です.
何度か名称変更や建て替えがされたそうですが,入口のポーチのみは,ずっと同じものを使用しているそうです.
現在は竹中氏や教育に関わる展示物850点を所蔵し,内52%が竹中氏関連とのことです.
前述のとおり陣屋とその周辺のジオラマもあり,陣屋だけでなく,曲がり角のたくさんある旧道,木場なども確認することが出来ます.
ただし案内の方も言っていましたが,時代別の展示等にはなっていないので,かなり雑多に置いてある感じがします…(^▽^)

その後はお隣の公民館に移動して意見交換会.
とらやんさんの半兵衛もちを振る舞っていただきまして,半兵衛もち好きの私はその場で食べずにバッグの中にそっとしまいました…(お家で食べました.)
ちょっとした意見や感想が出て,今後の参考となるようです.

余談ですが,前に禅幢寺の半兵衛の弟・久作のお墓にある説明書きのちょっとした年号間違いを見つけてずっと気になっていまして,書いた方もまだお気付きないようでしたので,ワークショップ終了後に然るべき方にお伝えしました.
「良く勉強しとるね」とお褒めの言葉を賜りましたが,「ひとえに外部記憶装置(ネットや自分のまとめExcel)のおかげです…」なんて言えず…笑
加えて余談ですが,前に参加させていただいた知的評定ビブリオバトルin垂井でご一緒させていただいた方が複数名見え,さらに帰り際に寄ったグルマンさんで更に複数名(別の方)に鉢合わせするという,なんとも濃ゆい垂井初めになりました…本当に濃ゆい…

ワークショップ後は南宮大社さんで初詣.
三が日が明けてはじめの週末なのでまだまだ駐車場待ちの列がありましたが,初詣なので駐車場の回転率は良いです.
あまり待たずに駐車できました.
青空の日ほど南宮さんは映えますね.


交通安全守と鈴守を手に入れました.


鈴守の音は綺麗で大きめです.
かねてより欲しかった熊除け鈴の代わりも兼ねて(罰当たりですみません…),山城巡り用のリュックに付けました.


そんなこんなでワークショップと初詣でした.
間違いの指摘などはめっちゃ受け付けます.
それではまた.
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