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20Apr
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29Oct
2016

おゆうちゃんを錬成しました

Posted by ゆぎ in 1/3DOLL

こんにちは.
2年くらいにbsr半兵衛様のキャラドを作って以来,ドール所持に対するハードルが一気に下がり,この度(当方の創作の産物である)おゆうちゃんドールを錬成するに至りました…
1/3ドールに抵抗のない方は,広告の下の「つづきはこちら」よりどうぞ.
(bsr半兵衛様ドールの写真も有り.)


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つづきはこちら

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22Oct
2016

諸用事を済ませるための垂井・関ケ原旅行

Posted by ゆぎ in ただの観光

こんにちは.
今日はいくつか目的があって,垂井・関ケ原に行ってきました.

一つ目は,最近ひのでやさんから新発売された武将なりきりブランケットを,小川新聞店さんの店舗でゲットすること.
発売よりずっと欲しくてたまらなかった逸品で,念願かなって石田・竹中ブランケットを手に入れました.
この冬はもう万全ですね…
(ブランケット自体は複数持ってましたけどね…)
その後,いつものように禅幢寺に訪れてお墓に手を合わせてから,次の目的地へ向かいました.

二つ目の目的は,関ケ原の交流館で「関ヶ原手づめ最中」を買うこと.
ついったで見かけて,お茶と一緒にぜひいただきたいな~と思い,買いに行きました.
こちらも無事ゲットでき,ほくほくです.
後でゆっくり食べます.

最中を買った後は,ココカフェさんでモーニングをいただきました.
ドリンクは三成コーヒーで.
コーヒー大好きです.
今回はいただいていないのですが,こちらの「陣地ーズケーキ」が定番商品(と勝手に思ってます)で,チーズケーキに好きな武将さんの家紋が入った旗を立てられるようです.
前についったで,その旗の種類は結構あるという旨のツイートを見かけまして,「といっても長束正家さまは際どいよな…」と思い,店員さんに尋ねてみたところ,探して見つけ出してくださいました.
あったらまた次来た時に注文しようと思っていましたが,ないことを覚悟してお聞きしたので,とてもびっくりです…
本当にありがとうございました.
近いうちにまた来ます.

そして最後の目的,タルイピアセンターで開催されている長野先生・諏訪原先生の原画・イラスト展に行ってきました.


どちらの方の絵も私の大の好みで,間近でゆっくりと眺められたのは幸せでした.
諏訪原先生の絵は各所で見ていて,前々から大好きです.
今回は,垂井町の観光イラスト・冊子等で最近お披露目された武将イラストを,各単体かつ(恐らく)全体でじっくり見たいと思っていました.
自分も絵描きの端くれで,昔から明度・彩度の振り幅の大きい絵が描けないことが一つの悩みどころです.
諏訪原先生の絵は陰影の強さも一つの魅力だと思っていますし,リアルでも気持ち悪いと微塵も感じない,整った絵がすごく憧れです.
こういう絵が描けたらなと常々思います.
一方の長野先生の絵は,間近でじっくり見るのは初めてでした.
今日観覧して何より感じたのは,原画の力強さや魅力,と言えばよいのでしょうか,とにかく,絵の中の人・物の立体感だけでなく,絵そのものの立体感や質感のような,原画だからこそ感じられる印象が,とても強く残りました.
写真撮影可だったのですが,この原画から感じた立体感を消してまで,自分の記録用写真として2Dに落としてしまうのは非常に忍びなく,長野先生の絵は撮影しませんでした.
諏訪原先生の絵は,全景を見る機会がとても少なさそうだったので,この機にと思って撮影しましたが,本心ではデジタルデータそのものを貰って眺めたいと強く思っています.
何に関しても変なこだわりを持ってしまう性格なのは良くないなと思いつつも,自分がそれを許さないので,どうしようもないですね…

あ,このついでに,気になっていた半兵衛小説を閲覧してきました.
半兵衛が実は女性,という設定の作品です.
今まで創作過多の小説は読んでこなかったのですが,かなり好感触だったので,後々購入しようと思っています.
可愛い妹やショタ久作くん,善左(強い)と十助(強い)と稽古する(されられる)半兵衛,喋る沢右京さんと喋る竹中重利等々…
変化球とはいえストーリーのアップダウン,(超個人的)萌えどころに富んだ作品でした.
今日は試し読み程度で全体をざっと読んだだけですので,また後で時間をかけて読むつもりです.


それではまた.

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10Oct
2016

たまに気になるお話

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
色々と忙しくしている今日この頃です.
去年に引き続きふらっと垂井に行くこともあって,その日付は記録しておきたいなと思うのですが,もはや日常化してしまって記録し忘れまくりで,今年何度行ったのか正確な回数が分かりません.
多分10回くらいでしょうか…専ら資料閲覧・複写のための訪問です.

さて,タイトルの通りのお話を…
竹中氏関連でたまに耳にする(目にする)のですが,その都度「ううん…?」と思うものです.
長浜の豊国神社の近くには,長浜開町四百年記念碑があり,その石碑には『豊鑑』に記されている歌が刻まれています.


記念碑のすぐ近くには,記念碑の説明看板が2つあります.
ひとつは記念碑を建てた際の説明看板だと思います.


こちらは恐らく,上の看板よりも後年のものと思います.


『君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のかずの つきやらぬまで』
この歌は,説明看板にあるとおり『豊鑑』に書かれており,比較的初めの方に登場する歌です.
ですが,竹中氏関連をご存知で,上の説明看板を読んだ方は,古い方の看板で『豊鑑』の著者を「竹中半兵衛」として紹介している事に「あれっ?」と感じると思います.
記念碑を建てたのが昭和48年ですから,その頃の重門公の存在は,まだ父の名の陰にあったということでしょうか.
一方,後年の(ものと思われる)説明看板では前述の疑問が解消され,『豊鑑』の著者は「半兵衛の子重門」となっています.
ですがこの看板にも「ううん…?」な点があります.
それは,歌の作者が竹中半兵衛となっているということです.
この歌が『豊鑑』に登場することは明らかなのですが,その歌の直後には「もう誰が詠んだのかも忘れてしまった」という旨の文が続き,半兵衛公が歌の作者であるとは一言も書かれていません.

で,つまり言いたいのは,この歌が半兵衛公の作であるという情報を鵜呑みにしないでほしいな,ということです.
また,『豊鑑』の原本の文字は見たことがないのですが,少なくとも「半兵衛公の自筆文字」ではなく,「重門公の自筆文字」を刻んだものであり,その辺を人に伝える際に誤りやすいのかなと思います.
(確かに,後年の説明看板だと「半兵衛公の自筆文字」とも読み取れますよね…)
それともう一つ,これは石碑・看板に非はないと思うのですが,「この歌が長浜の地名の由来になった」という誤解を招きそうなんですよね…
「長濱の地名起源歌碑」と書かれていると,「この歌が起源なのか」みたいな感じに陥りそうで…
地名自体は,「長く栄えるように」といった意味合いで付けたというのがよく聞かれます.
信長の名前から一字もらったとかいう話もあるようです.
(ちなみに,長浜市史を確認したところ,前者のような旨が書かれていました.)
ただ,何で見たのかど忘れしたのですが,「城落成の際に半兵衛が歌を贈り,その歌よりその地を長浜とした」というような話は,小説で見たかのかな…恐らく創作的なものですので,あくまで創作的なものとして捉えるのが一番かと思います.
もしかしたらどこかに半兵衛の作と明言された資料があるかもしれませんけどね…笑
(小説で見たような気がしたので手持ちの本をぱらぱらと見たのですが,大体どれも「今浜から長浜と名を改めた」くらいの文で済ませていたので,本当どこで見たのかなと…)
何かこれに関連した資料なりがありましたら,お教えくださいね.
以上,たまに気になるお話でした.

話は変わりますが,しばらく前,半兵衛公のお墓についての考察を載せたブログ記事に辿り着きまして,それが面白いな~と思っています.
半兵衛公のお墓は全国に4ヵ所あるようで,「本当の墓はどれか」といったことをテーマに,色々と資料を参照しながら考察されていて,たとえ考察の域を出ていないとしても,物凄く参考になります.

また別の話ですが,先日の垂井町の勉強会の中で少し紹介された『譜牒餘録』という資料が気になり,図書館で閲覧・複写してきました.
(いつものごとく竹中氏の項のみです.国立公文書館内閣文庫編のものは全3冊,竹中氏は下巻に入っています.)
寛政重修諸家譜編纂のために諸家から提出された資料そのものの写しとのことですが,恥ずかしながら私はその存在を全く知りませんでした…
(正確には寛政重修諸家譜編纂のための資料『貞享書上』を編集したもの.)
ざっと見た感じでは,確かに寛政重修諸家譜というか,どちらかというと寛永諸家系図伝の内容と同じでしょうか.
後程ゆっくりと見ようと思います.


それではまた.

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06Aug
2016

ふらっと垂井訪問とちょっとした愚痴

Posted by ゆぎ in 日常

こんにちは.
今日は垂井町観光協会のお土産品とピアでの複写目当てでふらっと垂井に行ってきました.

お土産品というのは,協会HPでもお写真がありますが,駅鈴です.
駅鈴の詳細を書くの面倒なので気になる方はググってください…
お土産品は陶器製で,色は茶とオリベの2種類.
今日買ったのはオリベのものです.
「中山道垂井宿 驛鈴」の文字が入っていますが,旧字体で書体も印篆体のような見た目のため,デザイン性があって良く馴染んでいます.
大きく揺らすと,見た目よりも軽やかな音が良く響きます.


山登る時にこれ持って「では公務に行ってきます」って言いたいだけです.
余談ですが,観光協会の方自身も仰るように,あそこ本当に商売っ気が無くて,今日は領収証がどこだか分からないという可愛らしい事態に…
そういうところが良いです.好きです.

で,ここからはちょっと愚痴もあります.
ピアでは,「垂井の文化財」シリーズで2009年から2015年刊行のものの中から,竹中氏関連の項目を一部複写してきました.
禅幢寺内のお墓の墓主及び位置(竹中氏のみ)の情報を入手できたのは嬉しいですね.
できれば竹中氏以外のお墓の情報も知りたいな~と少し思います.
ただ,こういった出版物を読んでいて思うのは,論文と比べると比較的読みづらいというか,図表の照らし合わせや活用の不十分さを感じるというか…
文中の言葉の指しているものが図として載ってるような表現で,その図を必死に探したけど,実は載ってなかったとか…
あと参考文献も最後にまとめて書いてあるのみで,加えて書名と出版社だけしか書いてなかったりとか…(書名があるだけでもありがたいですけど)
最近入手した「刀剣美術」シリーズに半兵衛公の虎御前の太刀についての考証が載っているのですが,それは通常の論文のような形式で書いてあるので,個人的には大変ありがたいです.
でもまあ親しみやすさとマジョリティを考えればこのままで十分だと思います.
偉そうなこと言って申し訳ないです…
でもあんなにありがたい情報をたくさん載せてくださっているので,それをより理解しやすくするためにも,図があると分かりやすいな~というところはやはり図を作るべきかなと…それだけは思います.
最近はあれこれ忙しくてまだざっと見ただけなので,またあとでゆっくり読みます.


それではまた.

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04May
2016

六社神社・海戸神社に関する追記と余談

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
前回の記事「揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました」では,2つの神社と竹中氏との関わりを書きました.
これについて,関連の書籍を追加で見てきたので,少し追記したいと思います.

まず,春日村史の当該部を閲覧した結果について.
春日村史に記載の神社は,その数も非常に多く,「六社神社」だけでも複数存在します.
しかし,その中で竹中氏に関する記録があるのは,前回の記事で紹介した2社のみのようです.
以下は,春日村史及び揖斐郡志からまとめたものです.

・六社神社(川合)
火災に見舞われたことがあるものの,棟札16枚が残っている神社で,重門・重常と代々による奉祀の記録が確認できます.
記録の一部では,
この神社は竹中重門が関ヶ原合戦の折に戦勝祈願をした神社で,その結果味方が勝利し,当社の床下に隠れていた者を捕まえた.
以来,その謝恩として,毎年米一石を神社に納めた.
(いつまでお米を納めていたかはメモし忘れました…すみません…)
とのことです.
春日村史内には遷宮の記録は載ってません.
神社の名称の遷移は,六社大明神之宮(元禄13年・古来帳),六社大明神(宝暦9年・神社改帳),同(明和元年・万明細帳),同(寛政8年・同),六社神社(明治5年・同)となっています.

・海戸神社
春日村史記載の昭和20年調の神社明細帳より,
「海戸神社は往昔より川合村字宮に鎮座したるに,岩手領主竹中重門の崇敬厚く,氏子に請ふて岩手村へ遷座し代々奉祀したるを,古屋住民は由緒に基きて竹中氏に請ひ大正弐年拾壱月古屋の現位置へ遷座移宮したるものなり.」
また,揖斐郡志には,
「海戸神社川合字古屋鎮座,祭神木花開邪姫命,勧請年月不詳,慶長五年岩手城主竹中重門母徳月院,此地に兵乱を避け祈願小康得たれば,岩手に奉遷崇敬す,明治四十四年八月遷座す.」
とあります.


で,自治体史を読んだ結果,前回の記事で書いたことに関して間違いがいくつか出たので,以下で訂正しようと思います.
前回の記事で,一番最初に参考にした本「垂井の文化財」を読むと,「春日村史の中では,六社神社と海戸神社を同一のものとみなしたような記述がされている」と読み取れ,またそのような趣旨のことをブログに書きました.
ですが,春日村史を読む限りでは,2社は独立して書かれています.
「垂井の文化財」の中で,どういった経緯で「海戸神社は六社神社の末社か?」という結論に至ったのかは分かりません.
また,2社は別社ということから,岩手(岩井)に遷宮したのはあくまで海戸(開戸)神社のようです.
(自治体史を読んだ限りの話.)
六社神社については,自治体史からは遷宮の記録が確認できませんでしたが,神社の記録自体に書いてある可能性があります.
竹中氏関連の書籍で,春日村から遷座したとされる神社が本当に六社神社であるのか,海戸神社であるのかも,出典が詳しく書いてあるわけではないので良く分かりません.
まあ今回図書館に春日村史の上巻がなく,中を確認できなかったのも一因の可能性がありますが…
神社の記録も全部が自治体史に載せてあるわけではありませんし,どうしてもそこら辺まで突っ込もうとすると,一個人では限界があります.
今回の話は神社の記録次第ということです.
また,前回「得月院様が避難した原因の戦は,姉川合戦などではないか~」みたいなこと書きましたが,これも今回「慶長五年」「関ケ原合戦」という記述から,間違っていたみたいなので,訂正します.
ではあの「元亀天正」の「十数年間」は何なのか…
ギブミー神社の記録…
さらに,「得月院様がお子が授かるようにと願掛けをした六社神社」と,「戦勝祈願した六社神社」が別の神社である可能性も0ではありません.
少なくとも神社の記録から後者は今回訪れた六社神社と判明しているようですが.
竹中氏関連書籍では「春日村の六社神社」となっており,竹中氏と関係のありそうな六社神社はここくらいなので,同一である可能性は高いですが,「願掛けのために訪れた,もしくは遷宮した」という記述は今の所確認しておりませんので,何とも言い難いです.
また,今回見た自治体史の中では,「得月院様がご仏像を持ち帰った」という事項は見つけられませんでした.
こういう雑記的・逸話的なのは自治体史では載ってなさそうですしね…
あと,「『字』って読めない字だと思います」とか言いましたが,これも多分違いますね…
本当,このブログを信じるのだけはやめてくださいね…
素人が足掻いてる記録を残すだけのブログなんで…

別の話ですが…
六社神社の項にある「床下にいた者を捕まえた」ってのは恐らく小西行長のことかと思いますが,同じく春日村の中山にある「小西神社」にも同じ話があるようで,前者は単に「床下にいた者」で,後者は「小西行長」であると書かれているようです.
(実際の記録は見てないので知りません.)
合戦後,隠れていた小西行長を捕えたことによる祟りか,火災に見舞われることが多々あり,禅幢寺に小西行長の墓を建てて供養した,という話は知っていましたが,このあたりの神社に隠れていたという伝えがあるのは知りませんでした.
小西神社について,春日村史によると,「小西行長を捕えたあとに火事が相次ぎ,その地の人が憐れんで,行長の残した小刀を埋めて墓地としたのが始まりである.その後に(色々あって)神社とし,今に至る.(超要約)」だそうです.
小西行長の小刀について,何か別の話があったような…と思わなくもないですが,それはまた時間のある時に調べるかもしれません.


んで,タイトルにあるように,ここからは余談(本人的には余談でない)をしたいと思います.
前回の記事にあるように,得月院様に興味があって,最近はその辺の史料探しをしたい気持ちが強いです.
なんですけど,やっぱり一筋縄ではいかなくて,尻尾を掴むどころか尻尾を見つけることすら出来ません.
今回,春日村史と揖斐郡志を読んでいると,その中で「徳月院」と書かれていることに気付きました.
(決して,上の海戸神社の引用文で変換間違えしたわけじゃないですよ…)
だいぶ前にタルイピアセンターのとある企画展を見に行ったとき,展示パネルの中に「徳月院」と書かれていたことに後々気付き,「まあ変換ミスだろうな~」なんて思っていたんですが,今回読んだ自治体史でも「徳月院」と書かれていることに気付いてしまったため,これはまた調べないといけなくなってしまいました…
地名ならまだ分かるんですけど,人の名前で戒名ともあれば,その当時は恐らく一つに決まってると思うのですが…
(人の名前(普通の)としては,漢字がいくつかあったりするのは分かりますが…)
はあ…湧き上がるだけで減らない疑問…

それともうひとつ,特に今一番気になる話,得月院様の容姿に関する(知っている限り唯一の)逸話で,以下のようなものがあります.
「安藤守就の娘は大層な醜女であったが,半兵衛はその娘を喜んで妻に迎えた.曰く,『妻が美人であると,付け上がったり,いらぬ執着心が湧いて留守中の不義を心配したりすることになる.それよりは,心根の優しい者であればよい.』」(超要約)
だいぶ前に偶然知った話で,以来その出所が気になっています.
これまで色々と竹中氏関連の書籍は集めてきましたが,この件を載せている本は私の手持ちにはなく,たまたまツイッターにて,ご好意で,この話の載った本を教えていただきました.
今の所確認できるものでは,火坂雅志「武士の一言」(朝日新聞出版)と,「名将名言録」(トライエックス)というカレンダーの2つです.
ただやはり何の史料が元なのかは分からないでいます.
半兵衛の逸話の載ってそうな本を今当たっていますが,常山紀談,武家事紀,美濃国諸家系図,寛政重修諸家譜,研究書数冊,歴史読本などにはなく,あとは竹中家譜,竹中旧記,竹中家雑事記,竹中家古由書なんかの非公開史料か,安藤氏(安東・伊賀)関連にあるのかな…なんて思ってますが…
どなたかご存知の方いらっしゃいませんか…
というかもうここら辺の非公開史料を全部まとめて出版してください…
もう読解文とかいらないですから…自分で読みますからどうか…


…それではまた…(泣)


参考及び引用文献(記載頁数は主要部のみ)
「春日村史 下」,(1983),p.635-651.
「揖斐郡志」,(大正13年),p.689.

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