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2024

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30Apr
2016

揖斐川町春日川合の六社神社と海戸神社に行ってきました

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は揖斐郡揖斐川町春日川合にある六社神社と海戸神社に行ってきました.
この二つは竹中氏と関係の深い神社のようです.
ご縁の内容は長くなりそうなので,とりあえず先にルート説明と写真をぽいぽいして,その後に詳しい説明をします.
*--20160504追記:この記事の追記を書きました.ーー*

少し古い地名でいうと,六社神社は春日村川合に,海戸神社は春日村川合の古屋という地にあります.(多分.)
海戸神社のある古屋は垂井町岩手の禅幢寺から北西6km弱の距離にありますが,垂井から直接繋がるルートは無いため,関ケ原町からのルート,池田山方面から山中を進むルート,粕川沿いに春日六合・春日香六と進んで春日川合から春日山中方面へ県道257号線を南下するルート,このいずれかでアクセスする必要があります.
今回は池田町から粕川沿いに進み(県道32号線),県道257号線始点の春日川合で六社神社に,その後同線を南下して古屋の海戸神社に訪れました.
粕川沿いの県道32号線は,春日香六あたりまでは比較的広い道路です.
こんな感じの景色が続きます.


写真と反対側にはちょくちょく茶畑があり,春日一帯でお茶の生産があるようです.
春日川合に入ると車一台分くらいの道幅になりますので,訪れる際は対向車に注意してください.

春日川合の「かわいばし」から県道257号線が始まり,進んでちょっとすると左手の道路脇に六社神社があります.
(余談ですが,県道32号線をそのまま進むと春日美束に入りますが,ここにも六社神社があるようです.)
駐車場はありませんので,神社の近くの広い場所に車を置きました.
道路の反対側には小学校があります.


石鳥居と神額


境内には岐阜県の重要文化財もありますが,内容は調べてないので分かりません.


六社神社から県道257号線を6,7km程進むと,海戸神社に辿り着きます.
こちらの神社も道路脇すぐにあります.
同じく駐車場はありませんので,近くの広い場所に停めました.
県道257号線は長谷川沿いの道路で,道幅は広かったり狭かったり…
奥のほうになると全体的に小ぢんまりとした雰囲気になります.
道中はこんな感じ.
(といってもこの左手に海戸神社があるんですけど…)


看板に池田明神線通り抜け不可とありますので,今の所は池田山方面と明神の森方面を繋ぐ道路のどこかしらが通れないということでしょうかね…


話を戻して海戸神社.
何か特別なものが見られるわけではありませんが,その穏やかさが好きで,長く過ごしていたくなります.


さて,ここからはこれらの神社と竹中氏との関係についてのお話です.
海戸神社は,元は開戸神社と書き,木花開邪姫命を祀る無格社です.
(建てられた年は分からないそう.)
竹中氏とも関係のある神社で,複数の棟札や記録が残っているそうです.
記録によると,その昔,半兵衛の妻・得月院が戦乱を避けるために池田郡粕川河合で過ごしていた折,守神としていたのがこの神社.
その後,岩手に戻る際に同地六社神社から御一体(仏像でしょうか)を持ち帰り,はじめは岩手山内塩ヶ谷口,後に岩井谷口に遷されました.
(参考にしている本では,「開戸神社は六社神社の末社であったのか?」との考えが示されています.)
明治44年になり,経営の問題と,神社を元の地に戻したいという思いから,再び移転することになります.
その際,開戸神社から海戸神社と改められ,春日村古屋の地で現在まで続いています.

六社神社に関する記述では,春日村史に「1600年に重門が関ケ原合戦の戦勝祈願をする」,「1600年に重門が開戸神社を岩手に奉遷する」,「得月院,川合六社神社へ戦勝祈願する」などがあるそうですが,岩手への遷宮と戦勝祈願のどちらが先か,得月院様が何の戦の戦勝祈願をしたのか,などは読んでいる本からは分かりません.
また,単純に読んでいると,得月院様がこの神社に訪れるきっかけとなった戦が関ケ原合戦のように思えてきますが,「元亀天正年間天下紛擾ノ際(神社移転許可出願理由書)」「十数年間(神社の記録)」過ごしていたという記述から,関ケ原合戦の際の避難ではないようです.
半兵衛公が信長公に仕えたのちの姉川合戦や横山城守備,小谷城攻めあたりは地理的にもそう遠くないですから,このあたりの戦での避難かと思います.
なおこの「十数年間」の間に子・重門も誕生し,重門公に関しては「岩手で生まれる」と一般にあるので,有事の際に,断続的に過ごしていたということでしょう.
(まあこの記述をそのまま信じた時の話です.)
「有事の際なら菩提山城に入れば?」と思うかもしれませんが,中井先生も絶賛するあの山城は重門公の年代に出来たものとのことなので,それ以前の城があれほどではなかったかもしれないことを思うと,春日村古屋への避難も妥当かと思います.
めっちゃ山の中ですし.

とりあえず,避難期間が元亀天正年間となると,得月院様がご仏像を持ち帰ってから重門公による遷宮までは期間が空くことになります.
ちなみに,岩手に遷宮したとのことですが,遷宮先の場所は今は明神湖底にあるそうです.
ちょっと悲しい…

それと,明治44年,海戸神社の再遷宮の願い出の理由を書いた「神社移転許可出願理由書」には,得月院様の避難先について「得月院殿池田郡粕川河合ニ潜ミ兵匁ヲ避ケ」という記述があり,同書で再遷宮に関して「古来揖斐郡春日村大字川合字古屋ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」とあるのですが,この二つ,パッと見て全然違う地名です.
(ちなみに「字」というのは恐らく読み取れない文字であることを意味しているのだと思います.)
しかし,明治22年まで春日村という地名はなく,池田郡であったこと,経年による河合や川合といった漢字の変化の可能性,「古来(の地)ニ於テハ神社ナキヲ大ニ遺憾トシ」という記述から,ほぼほぼ元の場所に戻されたものと思われます.
(垂井の相川も昔は藍川のようですし,長佐も今では表佐と書きますからね…)
まあ春日村川合って縦に長いんで何とも言えないですけどね.

ところで,得月院様が子が授かるようにと祈願したところも六社神社だったか六所神社だったような…
と思ったらどうやら六所神社のようですが,調べると六社神社も六所神社同じようで,池内先生編の本では「現・六社神社」とも記載され,元亀3年までには願掛けのために春日村から遷したものと推測される,となっています.
また,研究書ではありませんが,八尋先生の小説でも同じようなことが書かれています.
(共に1996年初出版.)

しかし検索すると垂井町綾戸にも六社神社があるのですが,川合六社神社とは関係あるんでしょうか…
と思って不破郡史めくったらかつての表佐村,荒崎村,静里村,綾里村にも…たくさん出ますね…
もうわからん…多分関係ないだろうな…社寺とか全然知らないし…
ちなみにですが,岐阜県内では春日美束,安八などにも複数現存するようです.
しかしそもそも岩井への遷宮の際に神社の名前を「開戸神社」としていたのか「六所神社(六社神社)」としていたのかが定かではありません.
ご仏像は六所(六社)神社から持ち帰ったのに遷宮したのは開戸(海戸)神社…?
…少なくとも,春日村への再遷宮時には「開戸(海戸)神社」であることは確かですが.
また,孫引き状態ですが,春日村史では六社神社と開戸神社がほぼ同一のものとして記述されているように見受けられます.
とりあえず,恐らく,得月院様が願掛けをした六社神社(六所神社)というのが,今回訪れた六社神社であるようです.
確証はないです.


こんなところで今日は終わりにしようと思います.
なんかもう年代とかがばらばらなんで考えるのやめました.
いつもの如く,書籍情報を鵜呑みにして受け売りしてますし,こうじゃないかな~というのも無い頭を使って捻り出してるものなので,当てにしないでください.
私は得月院様がすごく好きなのですが,得月院様に関係するあれこれをほとんど見かけないので,たまたま本の中でこの神社のお話を見つけた時は大歓喜でした.
その勢いのまま訪れたのが今回の旅行です.
今日初めて揖斐川町春日と池田町に来たわけですが,共にすごく良い風景の中にあって,暮らしの穏やかそうな所でした.
池田町に関しては娯楽も充実しているようでした.
またふらっと行きたくなる場所です.
それではまた.

参考及び引用文献
垂井町文化財保護協会(H4),「垂井の文化財(第十六集)」,p46-p54.
池内昭一編(1996),新人物往来社「竹中半兵衛のすべて」,p.186-p.187.
八尋舜右(1996),PHP「竹中半兵衛 秀吉を天下人にした軍師」.
不破郡史下巻.
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02Apr
2016

春になったので垂井に行ってきました

Posted by ゆぎ in ただの観光

もはや日本全国酒飲み音頭の歌詞みたく何にもないけど垂井行くとかザラ過ぎてアレですね…
今年2度目の垂井ですが,昨年の20回/年よりは少ないペースです.

さて,桜も見頃で天気も良くて比較的ゆっくりと観光できるのも今日くらいかな~と思ってお出掛けしてきました.
相川の桜と鯉のぼり目当てです.
去年も相川の鯉のぼりは見に行ったのですが,桜の開花前だったので,今年リベンジ.
その前にいつも通り半兵衛公のお墓参り.
春らしい景色ですね.


禅幢寺さんとその近くの桜の木.




朝早めに行ったのでそこまで人は多くありませんでした.
風は弱かったのでゆった~り泳いでました.



周りの桜は八~九分咲きくらいでしょうか.
それでも十分綺麗でした.




帰りに吉野屋さんの淡墨桜ういろを買ったので作業しつついただきます.
それではまた.

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09Jan
2016

新春垂井初め 竹中半兵衛ワークショップ参加と南宮大社初詣

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.
今日は垂井町観光協会主催の竹中半兵衛街歩きワークショップに参加してきました.
年が明けてから初めての垂井,天気も良く史跡巡り日和でした.(ただし風は冷たかったです…)
年明け初めてといっても大晦日に来てるのであんまり心持ちは変わっていません.

元々HPでは行程が「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」となっていましたが,実際は「竹中氏陣屋跡→禅幢寺→明泉寺→不破矢足の墓→五明稲荷神社→菁莪記念館→岩手公民館(意見交換会)」でした.
およそ3kmほどの行程です.
目的地間は旧道を多く利用しました.
案内は主に竹中半兵衛重治公顕彰会の方がしてくださいました.
以下では自分用のメモとしても流れや話を雑多にまとめていきます.
調べればすぐ分かる事項(現地の案内看板にある内容など)についてはさらっと記述するだけにします.
本気で書いたらくそ長くなるので…
それと聞いた話は一応メモをしたものをもとにしていますが,うろ覚えな部分もあるので念頭に置いておいてください.

いつもの如く,凛々しくていらっしゃいますね.


受付でお茶と観光パンフレットを受け取り,まずは竹中氏陣屋跡の説明を受けます.
竹中氏陣屋は関ヶ原合戦後,半兵衛の息子・重門により作られたもので,今は櫓門と外堀の一部が残るのみとなっています.
関ヶ原合戦後の処理のため,家康はその地の領主であった重門に一千石を下賜します.
それを資金として陣屋の整備をしたのではとも言われているらしく,そのため堀は「千石堀」とも言うんだとか.
堀のあたりに石垣がありますが,これは昭和50年に整備をして石積みとしたもので,それまでは土手だったそうです(昭和20年くらいの話).
ですが実際過去は土積みだったかもしれないとのことで,はっきりとはしていないらしい…(?)
今現在見ることのできる堀は櫓門の南側のものだけで,北側は埋め立てられています.
現在は発掘調査中の立看板があります.
何か発展があると嬉しいですね.期待しています.
櫓門をくぐった先には学校があり,北側から登校する子たちは今でもその門を通って学校に通っています.
同じく櫓門をくぐって学校より北側は竹中家の方が暮らしています.(見学はできません.)
その一帯は竹林となっていますが,少し移動してよく見てみると,土塁や堀があるのが分かります.
江戸時代に陣屋の取り壊し令が出ましたが,櫓門はなんとか保護したそうです.
石垣の上に登ると菩提山城址が良く見えます.

さて陣屋跡から禅幢寺に移動します.
移動途中の左手にはところどころ石垣がありますが,元々は2m位の幅の道がその石垣沿いにあり,それが旧道だったのだそうです.
その他にも,その道の脇に入る道など,うねった道は旧道なんだとか.
いざ敵が攻め込んできた時,一気に押し寄せられないように多くの曲がり角を設けたものです.
旧道がどのように走っていたかは菁莪記念館(後述)内のジオラマで確認できます.
陣屋跡の少し北には寺島氏の家があります.
半兵衛の孫(重門の息子)・重常の代に重門の妻の家・加藤氏(伊予国)へ奉公に出た家臣が,7代・重長の時に戻ってきて,ここに収まったそうです(超うろ覚え).
(ちなみに7代のお名前を調べたら「重長」と出てきましたが案内の時は「しげよし」と聞こえたような気がしなくもないけど結局良く分からないので信じないでね…☆)

まあそんな話を聞きながら禅幢寺に着きました.
禅幢寺は竹中氏の菩提寺です.
禅幢寺の門の外に石碑が建っているのですが,良く見ると左下の元々文字があった場所が埋められています.
この石碑,元は垂井駅の西の端にあったもので,禅幢寺までの距離が掘ってありました.
今では禅幢寺の前に移動されたので,距離の部分を消したわけです.
門をくぐると正面にお堂があります.
調査の結果,このお堂の梁は修復されたものですが,柱は江戸時代のものだそうです.
竹中家と黒田家は繋がりが深く,お堂には黒田長政の位牌もあります.
お堂から左手に進んだ奥にはお墓が並んでいます.
調査により誰のお墓であるのかは大方判明しているそうです.
半兵衛公のお墓もある上段には竹中氏とその妻のお墓が並びます.
石階段を昇った左奥,木の小さな祠が半兵衛公のお墓で,中には五輪塔があります.
その右隣の同様のお墓が父・重元のものです.
その間にあるのが半兵衛の妻・得月院のお墓です.
歴代当主でこの場所にお墓がないのは,2代・重門と14代・重固だそうです.
重固については敗戦が理由とのこと.
上段の東側下段は家臣団のお墓です.
その他に,安藤氏,加藤氏,小西行長,吉田松陰と交流のあった人物のお墓などがあります.

ちなみに半兵衛の父の名は「重元」というのはご存知かと思いますが,今まで地元の方を中心にこの名前を「しげちか」と読んでいました.
しかし最近は「やっぱりそうは読まないだろう」ということで「しげちか」から「しげもと」に変わる可能性もあるようです.
個人的には若干まあそうだろうね感がありますね…

禅幢寺を出て明泉寺に移動します.
元の道から脇に入り,旧道を歩きました.
実は明泉寺は私も初めて訪れました.
明泉寺には,竹中氏が来る以前この一帯を治めていた岩手氏のお墓があります.(中に入るには許可が必要らしい?)
元々は禅幢寺が岩手氏の菩提寺だったそうですが,今は明泉寺が菩提寺です(超うろ覚え).
そして明泉寺にも小西行長のお墓があります.
しかしこれが謎で,そのお墓は関ヶ原合戦よりも前のものらしく(岩手氏の時代だったかな…),不破氏の家来(岩手氏の家来?)2人の名前が書かれています.
これがどういう経緯で小西行長のお墓になったのかは不明とのことです.

明泉寺から不破矢足のお墓に移動します.
明泉寺から南東方向に少し歩くと川があります.
そのあたりは木場(木屋,きば・きや)と呼ばれ,建築木材などを集めた場所だったそうです.
川沿いの旧道を南下すると,左方が大きく開けます.
その開けた土地に岩手氏の屋敷などがあったそうです.

さて,不破矢足のお墓です.
お墓の位置については以前の記事をご覧下さい.
墓前にあんころ餅がお供えしてあり,交流させていただいている方と一時黄粉餅談議で盛り上がりました.
矢足の西側のお墓は矢足の妻のものです.
ここで不破氏(喜多村氏)の姓についてのお話もありました.
北村氏は元は岩手氏の家臣です.
ここに,府中不破氏(不破弥次(郎)のちに北村十助)が養子に入ったとのこと.
(詳しくは矢足の母が北村家でそこに嗣子がなく,矢足が事実上の後継者となったとのこと.)
のちに岩手氏と親戚関係にある竹中重元が岩手氏を追放(永禄元年,1558年)しましたが,この時十助は竹中氏側につきました.(なお他の北村2家は岩手氏につきました.)
結局この戦いで竹中氏が勝利し,岩手氏は追放されます.
北村氏は以前に仕えていた主君を裏切った,もしくは竹中氏に寝返ったということで,以来北村姓をやめて喜多村姓に名乗り替えたとのこと.
「不破矢足」を名乗ったのは姉川合戦後の29歳から.
(ちなみに不破さんの家譜には「晩年矢足と称す」という旨の記述があるようですが,70代まで生きて晩年という表現は相応しいのか否か…いやもしかして晩年の意味が違うのかもしれないですけど…)
それ以降時代が下って喜多村姓に戻したいとか云々かんぬんお話がありましたが酷いうろ覚えなので書きません.
詳しくは不破家譜にあるのでそっちを見てね.
(主にお家再興のためです.)
お話メモしたんですがうろ覚えすぎてあれだったんで,「もしかしたら不破(喜多村)家譜に載ってるかもしれないな~」と思い,せっかくなので不破家譜読んで所々補足入れてあります.
(タルイピアセンターで家譜コピーしたけど矢足の頁あたりをさっと見ただけで宝の持ち腐れしてるなんて口が裂けても言えない…)
まだ何も知らん頃は「戦場で足に矢を受けても奮戦した十助に対し,半兵衛が不破矢足と名乗るよう勧めた」という話を知って,「足に矢を受けても破られず」の意味で「不破矢足」としたのかと思っていました.
しかし『不破の地名』という本にも紹介のある通り「不破」という地名は元からあって,そこに根付いた家が不破氏と称し,それが矢足の父の家系だったのでしょう.
つまり矢足の名を受ける前に北村(喜多村)姓を名乗っていたにせよ,不破姓は元から持ち合わせていたわけです.
そして前述のとおりのことがあって,北村姓から喜多村姓を経て不破姓になった.
ですから半兵衛はあくまで「矢足」の名を与えたのであって,「不破矢足」の名を与えたのではないように思いますけれど,頭の良い半兵衛ならば「不破」に掛けて「矢足」の名を与えた可能性もありますね.
しかし父方の姓が不破だったにせよ,なぜ喜多村姓から不破姓にしたんでしょうか…
そこだけ今疑問が残っています…
ちなみにですが,案内の方(おそらく地元の方)は「十助」を「じゅうすけ」,「矢足」を「やそく」と呼んでいました.

続いて道路を渡った所にある五明稲荷神社です.
松寿丸お手植えの銀杏の木があります.
木本体は枯れかけていますが,今は根元から伸びた枝を保護して育てています.
今日見たら新たに囲いが設けられていました.
垂井の泉の大欅といい,松寿丸の銀杏といい,長く地域にあり不動であったものがなくなっていくのは寂しいですね.
この神社,実は竹中氏の岩手入り以前からある古いお稲荷さんだそうですが,古文書等が一切見つからないため,調査が進まないそうです.
この地一帯の史料と言えるものはやはり岩崎神社の棟札しかないとのこと.
父・重元についても長良川合戦以前は不明な点が多いです.
五明稲荷神社の南の石鳥居は,昭和16年に黒田家より寄進されたものです.

五明稲荷から菁莪記念館への移動途中,至る所に井戸があります.
これは武家屋敷の名残なのだそうです.
菁莪記念館は元は菁莪堂と言い,15代・重明が開いた藩校です.
何度か名称変更や建て替えがされたそうですが,入口のポーチのみは,ずっと同じものを使用しているそうです.
現在は竹中氏や教育に関わる展示物850点を所蔵し,内52%が竹中氏関連とのことです.
前述のとおり陣屋とその周辺のジオラマもあり,陣屋だけでなく,曲がり角のたくさんある旧道,木場なども確認することが出来ます.
ただし案内の方も言っていましたが,時代別の展示等にはなっていないので,かなり雑多に置いてある感じがします…(^▽^)

その後はお隣の公民館に移動して意見交換会.
とらやんさんの半兵衛もちを振る舞っていただきまして,半兵衛もち好きの私はその場で食べずにバッグの中にそっとしまいました…(お家で食べました.)
ちょっとした意見や感想が出て,今後の参考となるようです.

余談ですが,前に禅幢寺の半兵衛の弟・久作のお墓にある説明書きのちょっとした年号間違いを見つけてずっと気になっていまして,書いた方もまだお気付きないようでしたので,ワークショップ終了後に然るべき方にお伝えしました.
「良く勉強しとるね」とお褒めの言葉を賜りましたが,「ひとえに外部記憶装置(ネットや自分のまとめExcel)のおかげです…」なんて言えず…笑
加えて余談ですが,前に参加させていただいた知的評定ビブリオバトルin垂井でご一緒させていただいた方が複数名見え,さらに帰り際に寄ったグルマンさんで更に複数名(別の方)に鉢合わせするという,なんとも濃ゆい垂井初めになりました…本当に濃ゆい…

ワークショップ後は南宮大社さんで初詣.
三が日が明けてはじめの週末なのでまだまだ駐車場待ちの列がありましたが,初詣なので駐車場の回転率は良いです.
あまり待たずに駐車できました.
青空の日ほど南宮さんは映えますね.


交通安全守と鈴守を手に入れました.


鈴守の音は綺麗で大きめです.
かねてより欲しかった熊除け鈴の代わりも兼ねて(罰当たりですみません…),山城巡り用のリュックに付けました.


そんなこんなでワークショップと初詣でした.
間違いの指摘などはめっちゃ受け付けます.
それではまた.

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02Jan
2016

年末☆垂井陣跡巡り!

Posted by ゆぎ in 史跡巡り

あけましておめでとうございます.
大晦日は関ヶ原合戦で垂井に布陣した武将の陣跡を巡ってきました.
南宮大社さんの駐車場に停めさせていただいて,まずは元気なうちにということで南宮山へ.
南宮大社の脇を行くと鳥居の連なる道がありまして,そこを進んでいきます.
鳥居を抜けて南宮稲荷神社の手前当たり,左方に橋があり,この先に南宮山ハイキングコースがあります.


ハイキングコース案内板(クリックで大きくなります).


コース入口付近には安国寺恵瓊の陣跡があります.


山頂まではだいたい1時間程度.案内板通り行きは登りコース,帰りは下りコースにしました.
年末でしたが子供さんから60代くらいの方まで7人くらいはすれ違いました.いい場所ですね.
登っていくと土橋や竪堀,土塁などに出くわしますが,堀などは草木でほとんど埋まっていて少しだけ残念です.
単に神秘的なので撮っただけ.


埋もれた土橋


竪堀


土塁は綺麗ですね.


登った所が毛利秀元陣跡です.


展望台にある布陣図


晴れていたこともあり,山頂からの景色はとても良かったです.
名古屋のビル群も見え,山並みのグラデーションも綺麗でした.


山頂で空でない弁当してたら,登ってきた小学生くらいの男の子がその子のおばあさん(と思われる方)に「毛利が~」みたいなこと言ってて将来有望だなと思いました…
帰りは西回りのコースでしたが,あまり歩く人がいないのか,枯葉や石が結構ありました.
ただ竪堀のようなものとか曲輪のようなものとか(詳しくないので確証はないですけど)が多々あったので,帰り際に見て帰るのも良いかなと思います.

さて,南宮山を降り,そのまま徒歩で長束正家陣跡へ.
南宮山山頂から歩いて1時間20分くらい(うろ覚え).
平地の少し奥まった所に行くと開けた場所に出まして,そこに看板等が立っています.
車で来ても問題ないと思います.


パノラマ写真の正面奥の山は栗原山で,右の木の奥(見えないですけど)が南宮山です.


そのまま長宗我部盛親陣跡へ.
正家陣跡から歩いて25分くらい.駐車場については以前の記事でご確認ください.
盛親陣跡は以前半兵衛閑居の地へ訪れた時に同時に巡っているので,今回は麓のみ.
前回と違う点,軍旗が追加されていることに気付き,ちょっと感動…
その代わり前回あった名前入りの旗は見回した感じありませんでした.
ここで「そういえば盛親陣跡の旗(名前入りの旗)ってここ清水寺公園と連理の榊の場所にもあったような…?」と思い出し,なぜ二ヵ所にあるのか気になりつつ,思案してもどうせ分からんのでそのまま次の陣跡へ…
旗を立てられる本数の問題か,それとももしかして清水寺公園でなくてあの連理の榊あたりが本当の陣跡なのか…うーんわからん…(゜-゜)
後で調べられたらいいな…笑


次は池田輝政陣跡へ.
盛親陣跡から歩いて一時間くらい.
輝政陣跡は春王・安王の墓と同じ場所にあり,地区の方の墓所でもあります.
墓所のため,駐車場は数台分くらいはあります.
今は建物や鉄道がありますが,それらがなければ開けた平地で眺めも良さそうです.


輝政陣跡から南宮山方向の景色.
写真中央奥あたりの山が南宮山で,その手前麓あたりに吉川広家・安国寺恵瓊が布陣していました.


そこから西の方向に進んで浅野幸長陣跡へ.
輝政陣跡から歩いて15分くらい.
垂井一里塚と同じ場所です.
駐車場らしいものは確認できませんでしたが,交通量も少なく道幅も十分なので,路肩に少し駐車するくらいであれば問題ないと思います.


最後に吉川広家陣跡へ.
途中コンビニに寄ったので時間は分かりませんが,普通に歩けば20分くらいの距離です.
不破高校の隣にあります.
南宮大社に近いので,駐車するなら南宮大社さんの駐車場か,数分であれば路肩に駐車できそうです.
ここでも地元の方と思しき親子が訪れていらっしゃって,小学生くらいの女の子の将来を期待せずにはいられませんでしたね…



そんなこんなで陣跡巡り終了です.
戦国時代に関わる垂井の史跡はこれでだいたい巡り終わった感じですかね.
数えたら去年一年間で20回垂井来てました!
ちょっと意味が分からないですね…
今年も色んな所を巡れたらいいな~滋賀行きたい!(n回目)
それではまた…!

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21Nov
2015

横山城址・姉川その他

Posted by ゆぎ in 竹中氏関連

こんにちは.今日は横山城址,姉川合戦地,お買物で長浜と垂井に行ってまいりました.
まずは横山城址.
前々から「駐車場についての情報を」ということで心掛けていくつもりでしたが,今回は強敵でした…
横山城址は石田山公園内にあります(多分…).
事前にネットで駐車場について調べると,「県道243号線から県道509号線に入って日吉神社を過ぎて暫く走ると,山の西麓に駐車場があるので~」みたいな記述を見つけました.
ストリートビューを駆使しつつ探したのですがそれっぽいものはなく…
ただ,一ヵ所だけそれっぽくなくもないかな…みたいな場所があったので,今日はそこに停めさせていただきました.
あまり自信がないのでココ!とは言いませんが,山に向かう階段があるので多分山登り用なんじゃないかと思うんですけどね…;
さて,車を降りて支度を済ませ,その階段から登れるのかな?と思って階段を上がってみると,すぐに二手に分かれており,特に先に何があるかも書いておらずとても心配だったので,当初予定していた日吉神社のハイキングコースを行くことにしました.
入口の案内看板.
登り始めると城址までの距離の石碑が出てきますが,正直1町の長さが分からなかったのであんまり参考になりませんでした笑(でも実際歩いてるとすぐ「城址まで九町」の表示が出てきたのでそんなに長くないんですね.)


虎口あたり


曲輪と土塁


二重堀切なんかもありました.
そして山頂到着.
曇りでしたが眺めは良かったです.
伊吹山が良く見えます.


暫し休憩し,下りは観音寺側にしようと思って案内表示通りに歩き始めたんですが,これがめっちゃ厄介でした.
途中分岐があり,「観音寺下山道」に従って少し進んだら,山の等高線方向にも,その直角方向にも急勾配のヤバい下山道.(「ヤバい」しか言えない…杖持ってきて良かった…)
そして次に出てきた案内板が指し示す方向には崖.
「…崖やん…」
と思いつつ必死に登山道っぽいものを探すも,やっぱり崖.
結局案内板の指し示す方向とは直角の方向に人が通ったような跡が辛うじて見えたのでおっかなびっくりその道を降りていきました…(石像や山道整備用木材があったのは心の支えでしたね…)
結局観音寺には出られたので良かったんですけど,日吉神社側から登って心配な方は同じ道を帰ったほうが無難です.
まあもしかしたら私がアブノーマルな道を降りたのかもしれませんけど…笑
帰り際に,石田三成が秀吉公にお茶を献ずる時に水を汲んだとされる井戸も見てきました.



その後は姉川合戦地へ.
今はとてものどかな場所ですね.


次に遠藤喜右衛門どののお墓へ.
龍ヶ鼻の近く,田畑に囲まれた場所にぽつんと建っています.
定期的に献花もされているようで,大切にされている感じが伝わってきます.
 


史跡巡りの後は長浜へ.
最近親から一眼を譲ってもらったので練習がてら豊公園で紅葉を撮ったり鳥を撮ったり…
やっぱりそう簡単には上手くいきませんね…


それと半兵衛落人話で関係の深い常喜椀を買い求めてきました.
ギャラリー八草で対応してくださった方は常喜椀の漆塗り職人さんの奥様だそうで,とてもお優しい方でした.
年明けのお雑煮はこれで食べたいですね.



次の近江旅行は小谷城址や虎御前山なんか行きたいなと思っています.
雪の降った時でも風情があって良いですね.
ただそうなると山登りたくないんで,春がいいかな…笑
それではまた.

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